片想い婚
数日経った頃、私は天海さんに呼び出されていた。
誰もいない会議室。以前もこういうことがあった。その時も、そして今回も、呼ばれた理由は分かりきっている。
あれからどうやら天海さんは退職はしないらしい、ということは知っていた。仕事を数日休んでおり、その間私はいつも通り出勤していた。
逃げ出したいのは山々だった、天海さんに今更合わせる顔なんてない。それでも、仕事を途中で放り投げることはしたくなかった。
クビか、よくて左遷か。自主退職を求められるかもしれない。
どれでも覚悟はできていた。辞表はもう書き終えている。今まで通り働けるなんて思ってはいない。この会社の未来の社長の奥様に、私はとんでもないことばかりしてきたのだ。
入社を喜んでくれた母にだけは申し訳ない。こんな形で自分でも誇りに思っていた仕事を失くすなんて、自分はどうかしている。
呼び出された時刻になり彼の元へ行った。部屋に入ると、席に座り、何やら仕事の資料を見ていた。休んでいた間溜まっていた仕事かもしれない。
私は俯かず前を向いたまま、彼の正面に立った。
「失礼します」
彼はこちらを見なかった。じっと資料に視線を落としたまま、口を開かない。
手にかいた汗をスカートの裾で少し拭いた。再就職先を見つけなきゃかな、帰りに求人広告でも……
「新田さん」
「はい」
天海さんが声を出す。抑揚のない声で彼は告げた。
「今回のプロジェクトからは外れてください」
「……はい」
「手があくと思うので、今後はしばらく後輩の石田さんの指導に当たってください」
「はい、わか……え?」
私はぽかんとして目の前を見る。天海さんはまだ私を見なかった。慌てて彼に質問を投げる。
「え、天海さん、それだけですか?」
「それだけとは? 重要な話でしたが」
「そうじゃなくて……私、クビか、よくて左遷では?」
必死になってそう言う。だって自覚してるもの、私はそれだけのことをしたと思ってる。彼だって少しでも私の顔を見たくないに違いないのに。
質問に、天海さんはため息を一つ漏らした。
「そうなりたいんですか?」
「い、いえそういうわけでは。でもそうなるのが自然かなと」
「それだけのことをしたと分かってるんですね」
「……はい、分かっています」
拳を握りしめて言った。
彼はいまだ私と視線を合わせず、資料の文字を目で追っている。そのまま口だけを動かす。
「言っておきますが、
咲良がこうしてほしいと言ったんです」
ピタリと動きが止まる。信じられない言葉にパクパクと口を開けた。
「え? さ、咲良さん?」
「そうです。今回の件を仕事には持ち込まないでほしいと。これまで通り仕事はしてほしいと、咲良が僕に頼んだんです」
「ど、どうしてですか? 私はあの人に恨まれるようなことを散々したんですよ! 自分で理解しています。奥様と手を組んで、散々傷つけてー」
そこまで言って口籠る。そう、嘘を並べたり、嫌味を言ったり、私はどうしようもなく嫌な人間だった。
なのになぜそんな私を庇うような真似を? まるで理解できない、私がいなくなれば一番スッキリするのは咲良さんのはずなのに。
戸惑う私を尻目に、天海さんが言った。
「……『片想いの辛さは自分も分かるから』だそう」
「…………」
言葉を失くしている私に、天海さんがこちらを見た。今日初めて合ったその瞳は、私ではない人を見ているのだと気づいた。
違う人を、あの人を思い浮かべている。だから天海さんは、こんなに優しい目をしているんだ。
「新田さん。僕はね。
咲良ちゃんのこういうところが好きになったんだ」
どうして忘れていたんだろうか。
私が天海さんを好きになったきっかけは、移動して間もない頃。女だとか、外見がどうとかではなく、中身を見て評価してくれた。それまで散々裏で陰口を叩かれてきた自分は、彼の言葉が何より嬉しかった。
この人は外見や上部じゃなくて、人間の本質を見ている。
誰かを陥れようとする人間なんて見てくれるはずがない。髪型も、メイクも、ネイルだって。ただ外見だけを取り繕うのは全く無意味だったのに
「……というわけで。僕もあまり納得してないけど、社員としてこれからも働いてはもらいます。何もなし、というのもどうかと思うのであのプロジェクトからは外れてもらいました。死に物狂いで頑張ってきたのに外されるのはあなたにとって十分苦痛な結果であると思ったので。話は以上です」
再び私から視線を外して天海さんは言った。私は揺れるその色素の薄い髪を眺めながら心で思う。
自分がやったことは許されない、人を愛することで醜くなっては本末転倒。自分の中の愛という不確かなものに頼りすぎて大事なことを見失っていた。
ここでクビだ、と宣言されたなら、それで終わりだった。でもこんな形で私と彼女の格の違いを見せつけられたのは、ある意味一番辛いことだった。
敵うわけないか。私だったら絶対、こんなことはできない。散々自分を苛めた相手を助けるだなんて。
私はぐっと唇を噛む。そして泣きそうになるのを堪えながら言った。
「天海さん。
……本当に、好きでした」
掠れた声に、彼はピクリと反応した。もっと色々言いたいことはあるのに、それしか言葉が出てこなかった。
彼は再び私を見上げる。真っ直ぐこちらを見て言った。
「ありがとう。でも僕には好きな人がいるから」
キッパリと断言したその言葉を聞き、私は一つだけ涙をこぼした。
謝罪も何もきっと無意味だ。そんなことをする立場ですらないと思っている。
ただ、私にはないいじらしさと優しさを持つあの女性に、心の底から感謝したいと思った。
私は背筋を伸ばし、頭を深々下げる。
「すみませんでした。
仕事を頑張ります。よろしくお願いします」
天海さんははい、とだけ短く答えた。そのまま彼に背を向けて、私は歩き出す。
みっともない恋だった。くだらない自分だった。
もっと私を磨こう、それは外見ではなくて内面のこと。
仕事を頑張って、いつかまたあの女性にバッタリ会う機会でもあったなら。
その時恥ずかしくないように、しっかり謝れるように、
私は私を育てたい。