片想い婚
風呂を出て少しゆっくりし日付が変わる頃、すでに寝室で休んでいた咲良の元へと移動した。
薄暗くなった寝室で、彼女はもう横になっていた。私は静かにベッドサイドへ行き、そうっと布団をめくって自分の体を入れる。
その時、ふわりと甘い香りが鼻についた。同じシャンプーを使っているはずなのに、それが咲良の香りだと気づいて苛立った。そんなことにすら戸惑いを覚える自分に、だ。
無音でため息をつくと、早く寝てしまおうと枕に頭をおく。すると、てっきり寝ているのかと思っていた隣から咲良の声が聞こえたのだ。
「蒼一さん」
寝起きなのだろうか、その声は掠れていた。
「どうしたの?」
「もし、お姉ちゃんが見つかったらどうしますか」
暗闇の中で聞こえた言葉にどきりと胸が鳴った。
綾乃が今どこにいるのかは自分ですら知らない。ただ定期的に彼女に資金を振り込む約束だけしている。あの電話以降連絡は取っていないし、何をしているのか分からない。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「まだ、私の両親は必死にお姉ちゃんを探してますから……もし見つかったらどうするのかなって。蒼一さん、私との結婚をなしにしてお姉ちゃんと結婚しますか?」
悲しげに聞こえたその声に、言葉が詰まった。
ぐるぐると頭が混乱する。どう答えていいかわからなかったからだ。
もしかして、と考える。咲良は綾乃さえ戻ってくれば、また自分が自由になれると夢見ているのだろうか? 子供の頃からの婚約者は綾乃なのだ、本来なら綾乃と私が結婚するのが正しい。
どう答えるのが正解なんだ。言葉が出ない。
もちろん自分の中でそれはありえないと思っている。でもそれは私個人の勝手な想いだ。咲良をそばに置いておきたいが故の感情。
「……さあ、どうだろう。綾乃は他に好きな人がいるって言っていたし」
「……そう、ですね」
「分からない。まあ、見つかってから考えればいいんじゃないかな」
逃げのアンサー。情けなくてたまらなかった。
婚約者の妹を、それも七歳も年下の咲良をずっと想っていたなんて、言えるわけがない。言ったところで咲良を困らせるのは目に見えている。きっとそこそこ良好なこの関係すら崩れる。
綾乃が戻れば自由になれる——そんな夢を持っている咲良の期待を壊すことも、できない。
「……咲良ちゃんは」
「え?」
「こんな形で僕と結婚してしまったけど。やっぱり、好きな子とかいたんじゃないの?」
聞かなくてもいいことをなぜ聞くのか。自分で聞いて呆れた。いないです、と言われれば安心するからだ。
少し闇に目が慣れてきた。咲良はあちらを向いたままで後頭部しか見えない。彼女が今どんな顔をしているのか。
「好きな人は、
います」
そうキッパリと言い切った言葉を聞いて、私の頭の中は停止した。
正直なところ、予想外の言葉だった。いや、彼女の年齢を考えてもそりゃ好きな異性ぐらいいて当然だ。けれど『いました』ではなく、『います』という言葉は私に絶望を与えた。
現在進行形。そういうことだ。
今更ながら、自分が犯した罪の大きさに後悔し吐きそうになった。わかっていたはずだ、咲良の人生を狂わせたのは自分だと。でも改めてそれを突きつけられ、私はどうしていいのか分からなくなった。
彼女の心の中には他の男がいる。
「……ごめん」
「蒼一さんが謝ることじゃないんです」
「いや、僕のせいだ。ごめん」
暗闇に小さな謝罪の声が消えていった。咲良はそれ以上何も返さなかった。