片想い婚
翌日、咲良の体調はすっかり良くなったので私は出勤した。
昨日はほとんど寝込んでいる咲良に時々飲み物などを差し入れしたりするだけの日で、自分自身ゆっくり過ごせたのはよかった。夜には彼女の熱は完全に下がり、今朝はすっかり元気そうに笑っていた。
それでも無理しないようにだけ強く言い、会社に来て溜まった仕事をこなしている。
一晩咲良のそばにいた自分だが、幸い風邪はうつってないようだった。それどころか、昨日休んでゆっくりしたせいか、かなり仕事が捗っていた。もしかしたら初めて咲良の役に立てたような気がして嬉しかったせいかもしれない。
一日集中して仕事をこなし、時計を見ると思ったより早く片付いていた。咲良の体調もまだ心配なので、今日は早く帰ろう。そう思い帰る準備を行う。
外はすでに暗くなっていた。私は周りの人に適当に挨拶を交わすと、すぐに席を立った。
帰りに何か買って帰った方がいいだろうか。欲しいものなどがないか、スマホを取り出して咲良にメッセージを送ってみる。すぐに返ってきた。『ありがとうございます、大丈夫ですよ 気をつけてください』
短い文に少し顔を緩ませながらエレベーターに乗り込む。一階に到着した箱から出、足を速めて進んでいく。
こんなに家に早く帰りたいと思ったことはこれまでなかった。咲良と暮らし始めてからだ。家なんて、食事をして寝れればいいと思っていた。でも今は違う。私の帰る家には咲良が待っている。
会社の正面玄関をくぐり抜ける。車が停めてある駐車場に向かおうとした時、背後から低い声が聞こえた。
「天海さん」
振り返る。そこに立っていた青年を見て一瞬息が止まった。健康的な肌色に少しがっしりした体つき。短髪で端正な顔立ちをしているのは、あの日街中で咲良に紹介された北野蓮也という子だった。
彼はまっすぐに私を見ている。
「あ、ああ、蓮也くん、だよね」
戸惑いながらもなんとか声を出した。彼は以前会った時とは違い、丁寧に頭を下げた。
「こんばんは」
「こんばんは。どうしたの」
「あなたを待ってました」
ごくりと唾を飲み込む。いや、そうだろうと思っていた。会社の目の前で会うだなんて、偶然ではないのは明白だ。彼は真剣な目で私を見ていた。そのまっすぐな瞳に見つめられるだけで息苦しくなるほどだった。
私は平然を装って尋ねる。
「僕を? 待っててくれたの」
「はい、どうしても話したくて。どこの会社かは分かってたんで、ここで待ってれば会えるかなと」
恐らくだいぶ長い時間待ち続けていたはずだ。その根性と執念に素直に感心しつつ、私は続ける。
「場所を変えようか」
提案に、彼は素直に頷いた。困った挙句、私は近くにある喫茶店に彼と二人で入った。時間も時間だけに中は客人は少ない。一番奥の座席に腰掛け、適当にコーヒーを頼むと、改めて正面から青年をみる。
どこか緊張した、それでいて決意を固めたような表情。街で会った時とはどこか違った。さてどう話題を切り出そうか、と迷っていると、あちらから声を出してくれた。
「すみません突然」
「いや、別に。それでどうしたの、何か話したいことがあって来たんだよね?」
私がそう言うと、彼は一層まっすぐな目でこちらを見た。つい私がたじろいでしまいそうなほどの目だった。そして力強く、彼は言う。
「咲良を解放してあげてください」
予想していた通りの言葉に、それでも私は何も言えなかった。