好きになったのが神様だった場合
#1【水天宮の例大祭】


幼稚園の頃から着ている浴衣を、母の美幸が着付る。

紺色の地に、赤やピンクの朝顔がちりばめられた浴衣は、袴田明香里(はかまだ・あかり)のお気に入りだった。
小学二年生にもなりとっくに小さくなっていた。美幸とデパートやネットで探したが、明香里のお眼鏡に叶うものがなく、結局今年はまだこれを着たいと購入を断ったほどだ。

美幸はせめてとできる限り裾や袖を出したがそれでも足りない。それを見てさすがに明香里も諦めた、来年は買いなおしてもらおうと思う。
大型スーパーに行った時には文庫結びの作り帯を買っていた、せっかく来たからと買ったものだが、しかしつんつるてんの浴衣には似合わず美幸ががっかりした。
諦めて昨年まで使っていた稚児帯で結び直す、リボン結びでもかわいいが、少しでもお姉さんらしくなるようにと、美幸は輪ゴムを使って花のように仕上げる。
それを三面鏡に映して明香里は上機嫌だった。そして結い上げた髪に朝顔の絵が描かれたプラスチック製の風鈴が付いた(かんざし)を、美幸が挿す。

「ん、かわいい」

美幸は満足げに微笑んだ。そして小さなポシェットを差し出す、母の手作りだ。中を確認しすると猫の顔を模したがま口が入っている。

「いつのように千円ね。計画的に遣うのよ?」
「うん!」

縁日に行く時、美幸はいつも百円玉を十枚、つまり千円を用意する。明香里はその中からゲームをしたり、お菓子を買ったりするのだ。

月々のお小遣いは渡しているが、それを縁日で使ってしまうのは違うと美幸は思った、だから特別なお小遣いを渡している。余っても明香里のものだと伝えてあるから、大事に使っているようだ。しかし日ごろもなにか買っているわけではないようなので、なかなかしっかりした娘だと思っていた。

「じゃあ、行きましょうか」

紺地に白い百合を染め抜いた浴衣姿の美幸が手を差し出す、明香里はその手を握り締めた。

九月五日は、氏神である水天宮の例大祭がある、その為の縁日が三日から行われていた。それに参加するのが毎年の楽しみだ、水天宮では様々な催し物が行われ、参道いっぱいに屋台が軒を連ねる。この辺りでは一番大きいお祭りである。

母の美幸と手を繋ぎ、明香里は夜道を歩く。自宅周辺はいつもとそう変わらず静かだった。
だが水天宮に近付くにつれて大きくなっていくお囃子の音は、境内の神楽殿での奉納で、さらに人々の喧騒も聞こえてきて毎年の事だけに、脳裏に様々の事が思い出される。

冷たく甘いかき氷、たこ焼きや焼きそばのソースが焦げた匂い、子供がたくさん集まる金魚すくいは見目に涼しい、そしてひょろひょろと変な音を立てる水笛──今年は何をして楽しもうか。歩く足が早まるのを感じていた。

歩いてきた道を、左に折れると、途端に祭りの活気が満ち溢れる。
人々の熱気とにぎやかな笑い声が聞こえた、提灯の光がいつもは暗い道を明るく照らしている。法被姿の男女が酔った様子で騒いでいた、注文を受ける屋台の店員の怒声にも似た声が響く。

それらを背に聞きながら、まずは氏神様に挨拶を済ませ踵を返した。数十センチほどだが高台となる境内から見ると、通りを人が埋め尽くしているのがわかる、人の頭しか見えない状態だ。
鳥居を抜けて人ごみに入る前に、美幸は明香里の手を握り直した。そして屋台が見えるよう、なるべく端を歩き始める。
境内から先、四百メートルほど行ったところには一ノ鳥居があったと言うが今は無く、参道は車も走るただの一般道と変わらない。しかし今夜は歩行者天国となって一ノ鳥居近くまで屋台が道の両側に並ぶのだ。雑踏の中、行って帰るだけでもかなりの時間がかかる。

「あっちゃん!」

行き過ぎる人に声を掛けられた、幼稚園からの友人の一人、菊地奈央(きくち・なお)だ。
水天宮自体は学区内だ、だから多くの友人とこうして祭りの夜に会うのは珍しい事ではない。例大祭の最終日、五日には子供神輿も出る、参加すればアイスやお菓子がもらえるので、皆この祭りは楽しみにしている。

「奈央ちゃん!」

一緒に巡ろうかと言う話にもなったが、奈央はもう帰宅するところだと言う、奈央の母の胸には幼い弟が抱っこ紐に収まっている、2歳児を抱っこしてでは大変だと明香里もわかった。せめて少し楽しみたいとふたりはひとつだけゲームをすることにした、輪投げだ。ふたりが夢中になっている間、後ろで母たちが会話を始める。

「美幸さん、今年も素敵な浴衣ね」
「ありがとー」
「涼し気でいいけど」
「実際には暑いわよね」

笑う奈央の母は、ノースリーブのワンピースだ。

「あっちゃんの浴衣は、ちょっと短いかなあ?」

「そうなのよぉ。買い換えようって探しに行ったんだけど、なんか気に入った柄がなかったみたいで、これでいいって言い張るのよぉ」
「で、自分は買ったんだ」
「ご名答」

美幸はうふふと誤魔化すように笑う。

「でも、あっちゃんの可愛いもん、判るわ。子供すぎず、大人すぎなくて。あっちゃんに似合ってるし」
「ありがと。でもさすがに着てみたらやっぱり小さいのは判ったみたい。来年は買い換える気になってくれたわ」
「今度は、自分のは買わないように」
「おや、魂胆がバレバレですか」

母親同士が話している間に輪投げは終わり、そこで別れを告げた。

「あっちゃーん」

歩き出すとまた別方向から声がかかった、今度はクラスメートの戸田一樹(とだ・かずき)だった。
互いに挨拶をして、母親同士は時候の言葉を交わす。そして学校の様子などを話しているうちに、大きな歓声が聞こえた。そちらを見ると射的の屋台だった、女性店員が笑顔で手を叩き、男性客はガッツポーズを決めている。

「すげえ!」

戸田一樹が声を上げた、まず落ちないであろう、ゲームソフトを撃ち落としたようだ。

「あれ、落ちるんだな!」
「うん、すごいね!」

そこへ戸田一樹の友人が通りかかり、やはりその話題で盛り上がった。その友人が去り、戸田一樹も別れを告げる。自分も手を繋いで歩き出そうとすると──。

「え?」

頭上の声に、明香里は顔を上げる。美幸よりもはるかに若い女と手を繋いでいた、紺色の浴衣を着ているが、花火の絵が描かれているものだ。

「──え?」

明香里が手を離すと女は怪訝そうな顔で去っていく、明香里はひとり残された。

「……お母さん……?」

辺りを見回したが、見えるのは人々の背中とお腹ばかりだった。

「お母さん!」

声を上げたが声は人々に吸収されてしまうようだった、近くにいた数人が振り返ってくれたが、どうしたともいってはくれなかった。

「え、嘘……!」

一ノ鳥居へ向かって歩き出した、いつも屋台を見ながらその終わりまでいって、戻ってきて帰宅するのが常だ。
明香里はポシェットの紐を握り締めて歩き出す、しかし不安そうにキョロキョロして歩く明香里に人々は気づかず、屋台をのぞき込んでいた男性が体当たりして行く。

「痛……っ」

声も気づいてもらえない、今度は必死に背を伸ばして歩く。人ごみに懸命に美幸の姿を探した、紺色の生地に白い百合の浴衣だ。
せめて友達に会えないものかと思う、たった今連続して友達とすれ違ったのに、来てと願うといないものだ。
いよいよ並ぶ屋台の端が見えてきた、だが美幸の姿を見つけることはできなかった。

(もしかして、水天宮のほうへ?)

再度人ごみに紛れて来た道を戻る。
時に怪訝そうに見られ、時に流れる人々にもみくちゃにされながら水天宮まで戻ってきたが、美幸には会えなかった。

「……お母さん……どこ」

奥の社殿を見て、鳥居を見上げて、急に疲れを感じた。
たった三段の石段を上がり、鳥居に手を掛け背伸びをして人ごみに母を探そうとした、だが、下駄の鼻緒が指の付け根に食い込んで痛んだ、見ると真っ赤になっていた、随分歩いた証だろうか。

それを見たらもう歩けなかった、どこかで座って休もうと辺りを見回す。境内には神楽の催し物を見るためにベンチが並んでいる、普段はないものだ。その端に腰かけた。
背を丸め、溜息を吐く。

実際にはここからならひとりで家に帰れない距離ではない。

二百メートルほど行けば、明香里が通う小学校がある。そこまで行けば一年余り通い慣れた通学路になるし、友人の家に行くために水天宮の近くを通ることはよくある。

それでもひとりで勝手に帰ってはいけない事は判った。今頃母も探しているだろう、帰宅したことを母が知らなければいつまでも探し続けてしまう。そして自分は鍵を持っていない、帰ったところで室内にも入れない。

携帯電話があればいいのに、とも思った。よく両親がやっている、はぐれてしまうと「今どこ?」「今、○○にいるから」などと話しているではないか。
しかし明香里はまだ子供用の携帯電話も持たされてはいなかった。

神楽での出し物が終わったらしい、見物人の拍手が起こった。そちらを見上げたが、明香里は拍手もできずにまた視線を落とす。

(どうしよう)

じわりと涙があふれてくるのを懸命にこらえた。


< 1 / 44 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop