好きになったのが神様だった場合
明香里は息を呑んでしまう、まるでデートだ──昨年、男とやってきたときとは明らかに違う喜びに満たされる。そうだ、この感覚だと思い知った。
「先だっても随分向こうまで歩いたな。今日もそうするか」
「うん……!」
興奮を抑えて返事をするのが難しいほどだった、頬がとびきり熱い。
天之御中主神が明香里の手を取った、その手に促されて明香里は立ち上がる。左手に持っていたかき氷の容器を設置されているゴミ箱に放り込んだ。そんな事すら天之御中主神は興味津々だ。
ふたりは並んで、人の波に乗って歩き出す。
(以前とは違う)
天之御中主神は思う、10年前は人の背中と腹しか見えなかった、今夜は人々の顔が見えた。どれも楽しげな様子が見て取れて、天之御中主神の心も自然と高鳴る。
あたたかな手の持ち主を見た、明香里は目が合うとにこりと微笑む。明香里の成長は見て来たはずなのに、あの晩のように暑く賑やかな人ごみの中で見ると一気に大人の女性に成長したような錯覚に陥った。
(──愛おしい)
人ごみに負けてはぐれそうになったのか、きゅっと手を握り直す仕草がまた、そんな気持ちを加速させる。
明香里はドキドキと早鐘を打つのが、手を伝って知られてしまいそうで恥ずかしかった。しかし二度と離したくはないと何度も握りなおしその存在を確認していた。
行き過ぎる女性が天之御中主神に見入ってしまうのがわかって、明香里もその横顔を見上げる、凛々しい横顔は嬉々として前方を見つめていた。
以前も端正だと思った、それは人ごみから母を探すと言ってくれたからと思っていたが、それだけではないと今夜わかった。
(かっこいい、よね……)
改めて思っていると、天之御中主神がこちらを見て焦った、慌てて笑顔で誤魔化す。
天之御中主神は道中、何度も明香里を見てくれた。そんな仕草が嬉しかった、気遣ってくれていると判るからだ。
思わず握る手に力が入った時、その手がぐいと引かれ、なんだと思う間に今まで繋いでいた天之御中主神の手が明香里の肩にかかった。
「──え!?」
「こう人が多くては手が離れそうだ。これならば、はぐれまい」
「う、うん……っ」
戸惑う明香里を無視して、天之御中主神はそのまま歩き出す。
(ど、どうしよう……! 嬉しいけど、恥ずかしい……!)
肩にかかる天之御中主神のひんやりとする腕が心地よかった。
(でも……なんか、慣れてるな……やっぱりこんなにかっこいいと遊び慣れてるのかも……私も数いる女の子のひとりに……?)
思わず天之御中主神を見上げた、天之御中主神も明香里を見下ろして、にこりと笑う。
(──違うわ。無自覚なんだ)
心の中で嘆息した、きっと明香里が女であると言う気持ちもないのだろうと思える。
「ん? あれはなんだ?」
声の方を見ると、それはヨーヨー釣りだった。
(え、知らないの?)
そういえば、と思い出す。そもそもちんちん焼きも知らなかったのだ。そして今はキラキラした目で子供達がやっているそれを見ている、そんな様子を見れば知らないのだと判った。
「中に水が入った風船を、こよりに付いた針で吊り上げるんだよ」
「へえ」
興味を惹かれた声だった。
「やってみる?」
「でも金が要るのだろう?」
「え、持ってないの?」
「ないな」
「え……まあ、払ってあげるけど……」
ジゴロだろうか、などと思いながらもその屋台に近づいた。
「すみません、ひとりお願いします」
店主に言うと、300円と引き換えに一本のこよりを手渡す。
天之御中主神は子供達に混じって、それを始めた。
「む……なかなか難しいぞ」
「こよりがずっと水についてると、すぐに破けちゃうよ。ああ、ほら、こうやってヨーヨーの持ち手のとこが水面にあるやつを」
「ええい、一度にあれこれ言うな」
「そんなに面倒な事は言ってないよ」
それでも懸命に取り組む横顔が可愛く思えた。他の子供達に混じって、真剣に楽しんでいる。
なんとか赤いヨーヨーを手に入れ、天之御中主神はご満悦だ。
「お前にやろう」
「え」
まだしっとりと濡れているそれを手の平に乗せられ、明香里はヨーヨーに負けじと頬を赤く染める。
「あ……ありがとう」
些細な贈り物が嬉しかった。
他の屋台も覗きながら、やがてかつて一ノ鳥居があった参道の果てまで来た。
明香里は僅かに期待する。
(このまま、どっか行こうとか……)
思うと顔がにやけそうになる。
少し強引とも思える男は、今も明香里の肩を抱いている。
(でっでも、断るべきだよね! だってまだ逢って二度目だし、そんなそんな……っ、あれ? そう言えば、私、この人の名前も知らない──)
明香里がそう思いあたりいつ聞こうかとその横顔を見上げた時、天之御中主神はぴたりと足を止めた。
一等星しか瞬かない夜空を見上げる。感じていた、この先には出られないと。結界と言う名の自らを閉じ込める檻がある。
「──戻ろう」
小さな声を、明香里はきちんと聞いた。
「えっ、あ、うん!」
残念だと思ったのを、明香里は懸命に腹の底にしまう。
水天宮を背に歩いた時は、左側の屋台を主に見ながら歩いた、今度はその反対側の屋台をつぶさに見て歩く。
天之御中主神には初めて見るものが多く楽しかった。どれも興味を惹かれたが、欲するには金がかかるのは判った、その金が無尽蔵でない事も知っている。だから興味をそそられてもあれがしたい、これが食べたいとは言わずにいたが。
明香里が食べたいと言うから、『じゃがバター』をご馳走になった、あまりのおいしさに、頬が落ちると言う気持ちが初めて判った。
一緒にやろうと言うから射的対決をした、結局二人して何も落とせず、オマケのお菓子をもらっておしまいになった。
全てが楽しかった、改めて人を羨んだ。
やがてその楽しさは終わりを告げる、境内まで戻って来たのだ。
賽銭箱の前で足を止め、腕をするりと解いた天之御中主神を明香里は見上げた。その横顔で別れを感じ取る。
「あの。ありがとう。楽しかった」
先んじて言った、天之御中主神から別れを告げられたくはなかった。
「俺もだ」
天之御中主神は社を見ながら答える。
「あの……一緒に行ってくれてありがとう」
「俺の方こそ。いい経験になった」
そんな言葉に、明香里はふと、この男は物凄いセレブか何かで、なかなか外に出る事が叶わないのかと考えた。さきほどもおいそれと姿を見せられないといっていたではないか。
「娘」
それが自分の事とは一瞬わからず、それでも『娘』は自分しかいないと至って、明香里はくいっと顔を上げ天之御中主神と目を合わせた。
「名前を教えてくれ」
天之御中主神の言葉に、明香里はやっぱり、と微笑んだ。互いに名前も知らずに、居心地の良さを感じていたのだと。
「袴田明香里だよ」
「アカリか、良い名だ」
素直に言われて、明香里の頬に朱が上る。
「あの、私もあなたの名前を知りたい」
「俺か、俺の名は……」
天之御中主神は言い淀む、本当の名を言っていいのか、だが咄嗟に嘘の名前も思いつかなかった。
「天之御中主」
「あめ……?」
聞いても全く記憶の片隅にもない名前で、どんな文字を書くのか、何処までが名字なのかもよく判らなかった。
きょとんとする明香里に、天之御中主神は微笑む。
「天之でよい」
「天之くん」
明香里は繰り返し微笑み返した。
「あの、また逢ってくれる?」
それは以前にはできなかった約束だ。きちんと約束をすれば逢えそうな気がした。
「ああ、必ず」
いつも逢っていたがな、とは天之御中主神は言わない。
「ここで逢える?」
「ああ、待っている」
いつもそうだった、明香里が知らないだけで。
約束ができたことに明香里は嬉しそうな顔をして踵を返した、その後ろ姿を見送る。左手に手提げの籠と、天之御中主神が取ったヨーヨーが揺れている。
ずっと見てきた、小学生の頃のからだ、いつものように鳥居を出ると右に曲がって姿が見えなくなる。
行ってしまった、そう思った途端に、体が軽くなるのを感じた。
「──もう消えるのか」
思わず手を見下ろした、男の割には細く白い手が既に透けて、石畳が見えていた。
「明香里」
声は、もう空気を揺らさない。
「待っている、いつまでも、ずっと」
通りかかった男児と目が合った、天之御中主神が消えていく姿を見て目を見開き驚いているのが判った。天之御中主神は微笑みながら消えていく。
「先だっても随分向こうまで歩いたな。今日もそうするか」
「うん……!」
興奮を抑えて返事をするのが難しいほどだった、頬がとびきり熱い。
天之御中主神が明香里の手を取った、その手に促されて明香里は立ち上がる。左手に持っていたかき氷の容器を設置されているゴミ箱に放り込んだ。そんな事すら天之御中主神は興味津々だ。
ふたりは並んで、人の波に乗って歩き出す。
(以前とは違う)
天之御中主神は思う、10年前は人の背中と腹しか見えなかった、今夜は人々の顔が見えた。どれも楽しげな様子が見て取れて、天之御中主神の心も自然と高鳴る。
あたたかな手の持ち主を見た、明香里は目が合うとにこりと微笑む。明香里の成長は見て来たはずなのに、あの晩のように暑く賑やかな人ごみの中で見ると一気に大人の女性に成長したような錯覚に陥った。
(──愛おしい)
人ごみに負けてはぐれそうになったのか、きゅっと手を握り直す仕草がまた、そんな気持ちを加速させる。
明香里はドキドキと早鐘を打つのが、手を伝って知られてしまいそうで恥ずかしかった。しかし二度と離したくはないと何度も握りなおしその存在を確認していた。
行き過ぎる女性が天之御中主神に見入ってしまうのがわかって、明香里もその横顔を見上げる、凛々しい横顔は嬉々として前方を見つめていた。
以前も端正だと思った、それは人ごみから母を探すと言ってくれたからと思っていたが、それだけではないと今夜わかった。
(かっこいい、よね……)
改めて思っていると、天之御中主神がこちらを見て焦った、慌てて笑顔で誤魔化す。
天之御中主神は道中、何度も明香里を見てくれた。そんな仕草が嬉しかった、気遣ってくれていると判るからだ。
思わず握る手に力が入った時、その手がぐいと引かれ、なんだと思う間に今まで繋いでいた天之御中主神の手が明香里の肩にかかった。
「──え!?」
「こう人が多くては手が離れそうだ。これならば、はぐれまい」
「う、うん……っ」
戸惑う明香里を無視して、天之御中主神はそのまま歩き出す。
(ど、どうしよう……! 嬉しいけど、恥ずかしい……!)
肩にかかる天之御中主神のひんやりとする腕が心地よかった。
(でも……なんか、慣れてるな……やっぱりこんなにかっこいいと遊び慣れてるのかも……私も数いる女の子のひとりに……?)
思わず天之御中主神を見上げた、天之御中主神も明香里を見下ろして、にこりと笑う。
(──違うわ。無自覚なんだ)
心の中で嘆息した、きっと明香里が女であると言う気持ちもないのだろうと思える。
「ん? あれはなんだ?」
声の方を見ると、それはヨーヨー釣りだった。
(え、知らないの?)
そういえば、と思い出す。そもそもちんちん焼きも知らなかったのだ。そして今はキラキラした目で子供達がやっているそれを見ている、そんな様子を見れば知らないのだと判った。
「中に水が入った風船を、こよりに付いた針で吊り上げるんだよ」
「へえ」
興味を惹かれた声だった。
「やってみる?」
「でも金が要るのだろう?」
「え、持ってないの?」
「ないな」
「え……まあ、払ってあげるけど……」
ジゴロだろうか、などと思いながらもその屋台に近づいた。
「すみません、ひとりお願いします」
店主に言うと、300円と引き換えに一本のこよりを手渡す。
天之御中主神は子供達に混じって、それを始めた。
「む……なかなか難しいぞ」
「こよりがずっと水についてると、すぐに破けちゃうよ。ああ、ほら、こうやってヨーヨーの持ち手のとこが水面にあるやつを」
「ええい、一度にあれこれ言うな」
「そんなに面倒な事は言ってないよ」
それでも懸命に取り組む横顔が可愛く思えた。他の子供達に混じって、真剣に楽しんでいる。
なんとか赤いヨーヨーを手に入れ、天之御中主神はご満悦だ。
「お前にやろう」
「え」
まだしっとりと濡れているそれを手の平に乗せられ、明香里はヨーヨーに負けじと頬を赤く染める。
「あ……ありがとう」
些細な贈り物が嬉しかった。
他の屋台も覗きながら、やがてかつて一ノ鳥居があった参道の果てまで来た。
明香里は僅かに期待する。
(このまま、どっか行こうとか……)
思うと顔がにやけそうになる。
少し強引とも思える男は、今も明香里の肩を抱いている。
(でっでも、断るべきだよね! だってまだ逢って二度目だし、そんなそんな……っ、あれ? そう言えば、私、この人の名前も知らない──)
明香里がそう思いあたりいつ聞こうかとその横顔を見上げた時、天之御中主神はぴたりと足を止めた。
一等星しか瞬かない夜空を見上げる。感じていた、この先には出られないと。結界と言う名の自らを閉じ込める檻がある。
「──戻ろう」
小さな声を、明香里はきちんと聞いた。
「えっ、あ、うん!」
残念だと思ったのを、明香里は懸命に腹の底にしまう。
水天宮を背に歩いた時は、左側の屋台を主に見ながら歩いた、今度はその反対側の屋台をつぶさに見て歩く。
天之御中主神には初めて見るものが多く楽しかった。どれも興味を惹かれたが、欲するには金がかかるのは判った、その金が無尽蔵でない事も知っている。だから興味をそそられてもあれがしたい、これが食べたいとは言わずにいたが。
明香里が食べたいと言うから、『じゃがバター』をご馳走になった、あまりのおいしさに、頬が落ちると言う気持ちが初めて判った。
一緒にやろうと言うから射的対決をした、結局二人して何も落とせず、オマケのお菓子をもらっておしまいになった。
全てが楽しかった、改めて人を羨んだ。
やがてその楽しさは終わりを告げる、境内まで戻って来たのだ。
賽銭箱の前で足を止め、腕をするりと解いた天之御中主神を明香里は見上げた。その横顔で別れを感じ取る。
「あの。ありがとう。楽しかった」
先んじて言った、天之御中主神から別れを告げられたくはなかった。
「俺もだ」
天之御中主神は社を見ながら答える。
「あの……一緒に行ってくれてありがとう」
「俺の方こそ。いい経験になった」
そんな言葉に、明香里はふと、この男は物凄いセレブか何かで、なかなか外に出る事が叶わないのかと考えた。さきほどもおいそれと姿を見せられないといっていたではないか。
「娘」
それが自分の事とは一瞬わからず、それでも『娘』は自分しかいないと至って、明香里はくいっと顔を上げ天之御中主神と目を合わせた。
「名前を教えてくれ」
天之御中主神の言葉に、明香里はやっぱり、と微笑んだ。互いに名前も知らずに、居心地の良さを感じていたのだと。
「袴田明香里だよ」
「アカリか、良い名だ」
素直に言われて、明香里の頬に朱が上る。
「あの、私もあなたの名前を知りたい」
「俺か、俺の名は……」
天之御中主神は言い淀む、本当の名を言っていいのか、だが咄嗟に嘘の名前も思いつかなかった。
「天之御中主」
「あめ……?」
聞いても全く記憶の片隅にもない名前で、どんな文字を書くのか、何処までが名字なのかもよく判らなかった。
きょとんとする明香里に、天之御中主神は微笑む。
「天之でよい」
「天之くん」
明香里は繰り返し微笑み返した。
「あの、また逢ってくれる?」
それは以前にはできなかった約束だ。きちんと約束をすれば逢えそうな気がした。
「ああ、必ず」
いつも逢っていたがな、とは天之御中主神は言わない。
「ここで逢える?」
「ああ、待っている」
いつもそうだった、明香里が知らないだけで。
約束ができたことに明香里は嬉しそうな顔をして踵を返した、その後ろ姿を見送る。左手に手提げの籠と、天之御中主神が取ったヨーヨーが揺れている。
ずっと見てきた、小学生の頃のからだ、いつものように鳥居を出ると右に曲がって姿が見えなくなる。
行ってしまった、そう思った途端に、体が軽くなるのを感じた。
「──もう消えるのか」
思わず手を見下ろした、男の割には細く白い手が既に透けて、石畳が見えていた。
「明香里」
声は、もう空気を揺らさない。
「待っている、いつまでも、ずっと」
通りかかった男児と目が合った、天之御中主神が消えていく姿を見て目を見開き驚いているのが判った。天之御中主神は微笑みながら消えていく。