好きになったのが神様だった場合
この祭神の名だ、よもやその祭神が狐の体を借りているとは思わないだろうが、明香里は焦る。明香里の手が緩むと、狐も暴れるのをやめ、明香里の膝の上に伏せをする、明香里にしゃべりかけるなと目でのけん制は忘れない。

「名づけは誰が? ここに祀られているのが天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と知ってる方は少ないと思いますけど」

本神は、源平合戦で入水した安徳天皇である。

「あ、と、え……と、彼です」
「そうですか、素敵な彼氏ですね。もしかして、その犬は、彼の持ち物?」
(犬ではなーい!)
「いえ、違います、一緒に可愛がってはいますけど」

ペットにしてしまったら犬を放し飼いにしていることになる、そんなこと嘘でも公言してはいけないとわかり、それは断言した。

「あ、でもご迷惑なんですよね、この子は連れて帰ります」

言ってから焦った、そんな事はできるのだろうか?
明香里の家はかつての境内からも大きく外れている。天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は神域を出られない、狐はどうなのだろう?
それが憑依している狐では? 狐だけでも連れて帰れるのか?

「大丈夫ですよ、うちに住みついているわけではなさそうですし。ご自宅で飼えるのならお願いしますが」
「え、あ」

そうだと思う、マンション自体はペット可だが、母がいいというかどうか。
そんな表情を読み取ったのか、

「良ければうちで預かりましょうか」

健斗は笑顔で言った。

「え、でも……」
「社で繁殖でもされていたら困ると思ったのですが、どうやら大丈夫そうですし、でしたら本格的に繁殖される前に飼ってしまうのがいいでしょう。あなたのように可愛がっている人がいるなら大事にしないとバチが当たりそうですし」
「ええ、でも」

どうしよう、と明香里は口ごもる。この狐は神の使いとか言う存在なのだ、そんなものを飼ってもいいのだろうか。

「なにより」

健斗は囁く様に言うと音もなく明香里に近づき、その傍らに膝をつくと肩に手を置いた。

「あなたが連れて帰ってしまったら、俺があなたに逢う口実がなくなってしまう」

小さな声で言われて、明香里は目が点になる。

「──はい?」
「毎日のように詣でてくれてますよね。と俺が気付いたのは、ここ最近ですけど」

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と歩いているのを見てからだ。

「今時の若い方にしては珍しく信心深い方だと思って。まあ理由が彼氏さんと逢うためだとしても、きちんと手を合わせていらっしゃる姿に心惹かれました」
「ええ……まあ……」

明香里にしてみれば、子供の頃から毎日のように来てはいたが、手を合わせていた理由など言えるわけがない、子供の頃に出逢った少年にもう一度逢いたいと願掛けしていたなどと。

「こういう仕事なのでね、なかなか恋愛にまで発展しないんですが、あなたの様な方とならうまくやれそうだ。この子に逢いにこれからも来てください」
「いえ、あの」
「ああ、片思いの人がいるんですね。もう諦めたらいかがです? 望みのない恋もあなたをきれいにしてくれるでしょうが、実りある恋のほうがもっといいと思いますよ」
(勝手なことを言うなあ!)

狐は、明香里の肩に置かれた健人の指を噛む。

「──!」
「わ! こら、天之(あめの)くん、だめ!」

明香里は咄嗟に狐の体を引いたが、狐は健斗の手から口を離さない。

「ダメだってば! ヒトに怪我なんかさせたら!」

抱きしめ耳元で叫ばれ、さらに明香里の指を歯の間に差し込まれて、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)はしぶしぶ口を開く。

「──なかなか、聞き分けのいい」

だがなおも噛み殺さんばかりに歯をむき出し睨みつけている、そんな狐を明香里は怯えることなくしっかりと抱きしめていた。

「ふむ、本当に、よくなついてますね」
「いえ! 野犬です!」

堂々と宣言してしまう、それはそれで保健所案件になってしまうかもしれない。

「あの! 失礼します!」

慌てて明香里は立ち上がった。

「家まで送らせてください」
「子供じゃないので、大丈夫です!」

言い捨てて階段を降り、狐を抱いたまま鳥居も駆け抜ける。

「あの権禰宜(ごんねぎ)め! とんだ助平野郎じゃないか!」

十分に離れたと判断した白狐は揺れながら喋った。

「うん、びっくりした。あんな人だったんだね。見た目は全然チャラくないのに」
「チャラく?」
「あーえっと、『軽薄』?」
「何を言うか、十分軽薄だろう! 明香里を気安く口説きおって!」
「あ、うん、そうだね、それは間違いないや」

まったくの初対面ではないとはいえ、言葉をかけてすぐに交際の申し込みなどありえない。

「俺など、何年も明香里を思い続け、やっとこうして言葉を交わしているというのに! 俺など触れることも叶わなかったのに! あのやろう、明香里に手を、手を!」
「──うん そうだよね」

まったくそのとおりだ、ようやく言葉を交わせるようになった、多少イレギュラーな形ではあるが、このひと時は幸せではある。
明香里は走るをのやめ、歩きながら狐を抱きしめなおした。狐もまた前脚を明香里の首に回して抱きしめる。

ほどなくして。

「──明香里、ここまでだ」

言われれ明香里は足を止める、そこは神域の(きわ)だった。

「今日はしまいにしよう。また明日だ、明香里」
「うん」

明香里が応えると、ふわりと風が頬を撫でた。途端に明香里の腕の中の狐が声をあげる。

「明香里どのーっ! ぎゅうっとしてくだされー!」

明香里にかけていた前脚を密着させようとした狐は、突然何かに引っ張られるように明香里の腕から離れた。
首根っこの毛皮が伸びている、四肢をぶらりと下げてる様子は、まるで釣り下げられたマフラーの様だ。明香里は微笑んでしまう。

「天之くん、そこにいるんだ?」

微笑み聞いていた、返事なのか、狐の体がぶらんと左右に揺れる。

「不思議、狐さんは天之くんに触ってもらえるんだね」
「不本意ながらお使い申し上げている存在です、わたくしめも蹴りのひとつやふたつは見舞うことが」

いった瞬間、乱暴に上下に振られて狐は悲鳴を上げる。

「うらやましいな。私も、せめて見えたらいいのに」

明香里には、その存在すら感じられない。
再度ふわりと撫でられたのは頭だった。とても不安定ながら左右にふわふわと撫でられ、それが風によるものではないと判る。

「……ありがと、天之くん……」

撫でるその手に触れようと手を重ねてみるが、感触などありはしない。
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