好きになったのが神様だった場合
「──そういう、手を打つではなく」

しょせん女性の力の平手だ、わずかに感じる痛みを健斗は手の甲で拭う。

「夢を見ちゃダメなんですか!?」

明香里自身わかっている、いつまた見えなくなるかもわからない、そんな相手をこうも想うのは辛い過ぎるのだ。

「10年も片思いをしていたんです、今更忘れるなんて無理なんです! ほんの少しの間でも恋人でいたいんです……!」

右手の痛みを、そっと左手で包み込み胸に押し当てた。その痛みは胸が感じる痛みだと思える。
涙をこらえる明香里に、健斗はさすがに言い過ぎたかと溜息を吐いて反省する。

「恋人気分を味わうために天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さまにプレゼントを?」
「そうですよ、悪いですかっ?」
「──いつかいなくなってしまうなら、なくなってしまう物のほうがよいのでは?」
「いいんです、いつか、天之くんが見えなくなってしまったら私が引き取ります」

天之御中主神が触れたものが何よりの大切なものに思える、それらを数少ない天之御中主神との思い出に──そう思うと涙がこぼれた。
そこへ天之御中主神がひょっこりと顔を出す。

「明香里、なんの騒ぎだ──って、泣いておる! おい、権禰宜! 明香里を泣かせるとは許さんぞ!」
「はいはい、すみませんでした」

軽い謝罪に天之御中主神に怒りを見せ、明香里の腕を引いて抱き寄せる。

「大丈夫か、乱暴でもされたか」
「されたのは私のほうです」

僅かに赤くなった左の頬を示すと、天之御中主神は鼻で笑う。

「頬を叩かれたら、もう一方も差し出せという言葉を知っておるか」
「ほほう、なかなか博識ですね、異国の聖書の言葉までご存じとは。さすがは宇宙の誕生とともに生まれた神様です」

天之御中主神は黙って左手振り上げた。

「そもそもその言葉にはいくつか解釈があるのはご存じですか?」

健斗は意に介せず話を続ける。

「叩かれていない方の頬を差し出すのは自分に敵意はなく、仕返しはしないという意思表示とだというものや、本来その言葉は右を叩かれたら左も出せというものです、それは明香里さんのように人間の多くは右利きで、それで左の頬をはたかせるには手のひらでぶたなくてはいけないでしょう、それは身上の者に対する反逆心の現れを示したものだというものもあったり」
「よくは知らん」

いって天之御中主神は目を光らせ、今こそ手を下ろさんとする。

「本当に心の狭い神様です、慈悲の心はないんですか」
「ない、明香里をいじめる者には特に」

はあ、と呆れた溜息を吐いた健斗の右の頬を、明香里が優しい力でぶった。

「──は?」

男ふたりの声が重なる。

「天之くん、これで許してあげて」

いくらなんでも男の力でぶたれてはかわいそうだと思い、明香里自ら叩いて場を収めようとした。そんな明香里の気持ちを理解し、天之御中主神は明香里を抱きしめる。

「明香里は、本当にかわいいやつだなあ!」

ぐりぐりと乱暴に顔を明香里の頭や首筋にこすり付ける、明香里は恥ずかしくも嬉しかった。

「うんうん、お前がよいならもういい! さあ、境内の掃除でもしよう!」

嬉しそうにいって手を引き売店を出ていく、明香里も素直についていった。
そんな後姿を見送って、健斗は再度溜息を吐く。

「──まったく、ピュアすぎて負けますね」

ふたりは社務所の引き戸から外へ出た、脇の壁には竹ぼうきが立てかけてある。

「これで石畳にある砂利を払うのだ」

いって竹ぼうきを明香里に差し出す。

「俺はゴミ拾いをしよう、道具を持ってくる、明香里は始めていてくれ」

いわれて明香里は微笑んだ。

「はい、先輩」
「先輩?」

不思議そうに聞く天之御中主神に明香里は微笑む、僅かでも先にここでの仕事を始めていたのは天之御中主神だ、しかもきちんと仕事を指示してくれる、本当に先輩のように感じられた。
明香里の笑顔に天之御中主神も笑顔で返し、本殿脇にある掃除用具が入った倉庫へと向かう。

明香里は言われたとおり、石畳にある玉砂利を元へ戻すために掃き始める。
まもなくだった。

「お、巫女さんだ」

若い男の声に明香里は視線をやると、しっかりと目が合ってしまったので小さく会釈をする。それは水天宮の一員と認識しての挨拶だ。
4人の男達だった、20歳前後と見える、どこへ行くつもりだったのかは知らないが、ひとりが足を止めると皆で止まり、顔を見合わせてにやりと笑ったのに明香里は恐怖を覚える。

直に天之御中主神も戻るだろう、背を向け掃除に意識を集中させる。

「巫女さん」

その声はすぐ近くでした。

「そんな恰好で寒くないの?」
「え、いえ……」

振り返った時には左右にも男がいて、三方を囲まれていた。

(え、なんで……っ)

「へえ、なかなかかわいいじゃん、服装のせい?」

右側にいた男が抜いた衣文をひっぱった、不意のことに明香里は必要以上に驚く。

「やめてください!」

振り払おうと体を動かすと、持っていたほうきの柄の端が前に立っていた男にぶつかってしまった。

「いってー!」

大げさに声を上げ、当たった腕を押さえて座り込む。

「え、ごめんなさい……」

謝罪は弱くなってしまう。そんなに強く当たったつもりはない、先ほど健斗をはたいた時より弱いと思える力だったが、当たり所はあるかもしれない、しかしコートの上からだ、衝撃からいってもそう痛みはないように思ってしまう。

「大丈夫か、ジュン! あーあ、巫女さんが怪我させるなんてなあ!」

ひとりが上げた大声を、他のふたりが賛同する。

「すみません、あの、手当てを」

社務所に来てもらおうと思い建物を指さす。手伝いのつもりで始めたバイトなのに、逆に迷惑をかけてしまうことになってしまったと思う。

「ああ……薬ならうちにある……巫女さんが来てくれて、ちゃんと手当してくれたら、痛みが引くだろう……」

男の言葉に、明香里は「は?」と間の抜けた声が出てしまう。

「だってよ! ほら、来いよ!」

乱暴に腕をつかまれた、背は別の男に押される。

「あの! だから社務所へ……私、バイト中なので、勝手に抜けるわけにはいきません!」
「俺から連絡しておくよ! ほら、行こ──」
「なにをしている!」

天之御中主神の鋭い声に、明香里は安堵した。

「ち、男か」

姿を見た男がいう、聞いて背を押していた男は手を離した、だが離れた手は明香里の胸を背後から掴んだ。

「──い……っ」

叫び、胸を押さえてよろめく明香里に、天之御中主神は異常を察知する。

「貴様ぁ!」

声に質量があったように明香里は感じた、それは風のように明香里たちに吹き付けたが、明香里には髪を揺らす程度にしか当たらなかった。だが4人の男たちは鉄球に弾かれたように地面に転がる。

「な、な!?」

何が起きたかもわからず動揺する男たちの頭上に水がかけられた。バケツをひっくりかえしたでは済まない水の量だ、まるで消防車の放水車のような水に頭上を見上げる。
それが雨だとわかったのは雨雲があるからだが、おかしいのは雨雲は4人の2メートルほど上空にある点だ。直径も2メートルほどで4人を包み込むだけしかない。

「──は!?」

なんだなんだと思う間に、危険を察知した。真っ黒な雲の内部がピカピカと光り始めたのだ。ミニチュアのような積乱雲が雷を落とそうとしている。

「なんだ……!?」
「やべ! 逃げろ!」

4人は慌てふためいて、立ち上がるのもままならぬ様子で転がるように走り出す。その上を雲はぴったりとついていく。

天之(あめの)くん!」

明香里は叫んでその体に抱き着いた、その時騒ぎを聞きつけた健斗も社務所から出てくる。

「何の騒ぎです?」

聞くまでもなかった、参道の極地的に水たまりができているのがすでに異常だった、そして鳥居の向こうを走って逃げていく男たちを追いかけるように積乱雲が光りながら動いている。

天之(あめの)くん!」

悲痛とも思える明香里の声がする、天之御中主神を見ればただ前方をにらみつけているだけだが──近づきその頭頂部に手刀を入れる。

「い……っ、たいのう! 権禰宜、なにをする!」

瞬間、雲は蒸発するように消えた。
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