好きになったのが神様だった場合
***
その年の例大祭に、例年通り明香里は浴衣姿で現れた、その姿を見て天之御中主神は浮足立ち、身を乗り出したが、すぐさま眉間に皴を寄せた。
「──なんだ、あいつは」
明香里のすぐ隣に男が並んで歩いていた。
たまたま並んでいるだけか、いいや違うとすぐにわかる。男は懸命に明香里に声を掛けていた、昂揚した顔からも明香里に何らかの想いがある事はすぐにわかった。
しかし明香里の方はうんうんと頷いているだけだ、完全に聞き手に回っているらしい。それが天之御中主神はなんとなく気に入らない、これで明香里が嬉しそうにしていれば祝福してやろうかと言う気にもなるが、嫌がっているのを無理矢理か、と思えたのだ。
そこへ、狐の耳がひょこんと視界に入ってきた。
「おお、あの娘に恋人ができたようですな。めでたい、めでたい」
「めでたいことなどあるか」
明香里が賽銭を投げ込んで手を合わせた、それを見て男も手を合わせ頭を下げる。
そんな姿にむか腹が更に立った。
「何を祈るか」
「早くねんごろになれるように、ではありませんかぁ?」
「──ねんごろ」
とびきり低い声で繰り返した。
「まあ、どんなに大切に思っても、しょせん娘もヒトの子ですからねえ。どう頑張ってあなた様があの娘と通じることなどないんですよ。いい加減無駄な片思いなど諦めて、素直にふたりの門出を祝福なさいませ」
狐が口上を述べる間にも、参拝を終えたふたりは目を合わせ微笑み合うと背を向けた。歩き出すと男の手が不自然に左右に揺れる、明香里と手を繋ごうと言う気らしい。
(その手は俺のものだ)
邪魔をしてやろうと言う心根が力に出た。
西に明るさが残る夕闇の空に、たちまち黒い雲が立ち込めた。人々がそれに気付くより前に雨が、まさしくバケツをひっくり返したが如く降り始める。
人々が悲鳴と共に右往左往し始める、ある者は屋根がある屋台に避難し、ある者は近くの建物に逃げ込んだ。
「天之御中主神さま!?」
狐がとびきり甲高い声で叫ぶ。
「これはあなた様の力ですね!!! 今すぐ治めてください!」
「──やかましい」
失敗した、と臍を噛んでいるのは天之御中主神のほうだ。
明香里たちふたりは、すぐさま社の庇の下に戻って来た。手を繋ごうとする野望は阻止できたのに間違いないが、避難したふたりは突然の豪雨に互いの目を見て驚き、笑い合った。そして濡れてしまった男の髪を明香里は手提げの籠から出した小さなタオルで拭き始める。男は慌ててそれを止めて自分のハンカチで拭こうとしたが、何を思ったのかそれは明香里の頬を撫でた。
明香里は驚いたが、ふと笑みを零して受け入れた。そのまま互いに拭きあう形になる。
そんな姿に、天之御中主神はふん、と鼻を鳴らすしかない。
「──もう、俺は寝る」
「寝るって!!! そもそも睡眠も必要としていないのに!」
それでも背を向けて丸くなろうとする天之御中主神の背に、狐は怒声を浴びせる。
「雨は止ませてからにしてください! 天之御中主神さま!」
「あめあめ、うるさいのう」
そうは言うが、雨はぴたりと止んだ。
その様子に明香里たちは再び驚き見つめ合い、微笑み合うと歩き出す。今度はとても自然に男は明香里の肩を抱いていた。体をぴったりと寄せ合って雑踏に消えていくふたりの背を、天之御中主神は視界の端で睨むことしかできない。
(しょせん、俺とお前では──!)
奥歯を噛みしめるが、音すら響くことはなかった。
☆
それからも明香里は、変わらず水天宮に寄り道をする。
それを天之御中主神は、厨子から見ている。
ときめく心を懸命に抑えた。
明香里の参拝は、単なる習慣なのだと思うことにした。他にも通りかかった折に氏神に挨拶をして行く者は多い、そのうちのひとりなのだ。必死になにかを願う様子には気づかないことにした。
厨子の奥に置いた風鈴の簪を手にする。
「──もうお前は、俺の手を必要としている幼子ではないのだな」
この簪をしていた少女はもういない、成長しないのは自分だけ、それはよくわかった。見た目だけではない、心もだ。
「あなた様は、そもそも誰かひとりのために存在しているのではありません」
狐の声がした、厨子の前の床にきちんとお座りの姿勢で座り厨子を見上げている。
「あなた様は造化三神、万物の中心、あらゆる存在のバランスと保つ役目。そして水天宮に祀られてからは、安徳天皇様のお護りする立場」
「わかっておる」
「ならば、もう世俗はお捨てください。以前の懶惰な神にお戻りくださって構いませんから」
「──狐は一言多い」
溜息を吐いて身を小さくした、風鈴を身に抱え目を閉じる。
(思い出すくらいはいいだろう)
あの日、自分を頼り切って手を握り締めくれた小さな女の子の姿を。その手を取った時なんとも誇らしい気持ちになったことも。甘い香りとともによみがえるその記憶は、天之御中主神にとってはついこの間のような気がした。
(──もう一度くらい──)
小さな風鈴を頬にこすり付ける、もっともそれは何の感触もない。
その年の例大祭に、例年通り明香里は浴衣姿で現れた、その姿を見て天之御中主神は浮足立ち、身を乗り出したが、すぐさま眉間に皴を寄せた。
「──なんだ、あいつは」
明香里のすぐ隣に男が並んで歩いていた。
たまたま並んでいるだけか、いいや違うとすぐにわかる。男は懸命に明香里に声を掛けていた、昂揚した顔からも明香里に何らかの想いがある事はすぐにわかった。
しかし明香里の方はうんうんと頷いているだけだ、完全に聞き手に回っているらしい。それが天之御中主神はなんとなく気に入らない、これで明香里が嬉しそうにしていれば祝福してやろうかと言う気にもなるが、嫌がっているのを無理矢理か、と思えたのだ。
そこへ、狐の耳がひょこんと視界に入ってきた。
「おお、あの娘に恋人ができたようですな。めでたい、めでたい」
「めでたいことなどあるか」
明香里が賽銭を投げ込んで手を合わせた、それを見て男も手を合わせ頭を下げる。
そんな姿にむか腹が更に立った。
「何を祈るか」
「早くねんごろになれるように、ではありませんかぁ?」
「──ねんごろ」
とびきり低い声で繰り返した。
「まあ、どんなに大切に思っても、しょせん娘もヒトの子ですからねえ。どう頑張ってあなた様があの娘と通じることなどないんですよ。いい加減無駄な片思いなど諦めて、素直にふたりの門出を祝福なさいませ」
狐が口上を述べる間にも、参拝を終えたふたりは目を合わせ微笑み合うと背を向けた。歩き出すと男の手が不自然に左右に揺れる、明香里と手を繋ごうと言う気らしい。
(その手は俺のものだ)
邪魔をしてやろうと言う心根が力に出た。
西に明るさが残る夕闇の空に、たちまち黒い雲が立ち込めた。人々がそれに気付くより前に雨が、まさしくバケツをひっくり返したが如く降り始める。
人々が悲鳴と共に右往左往し始める、ある者は屋根がある屋台に避難し、ある者は近くの建物に逃げ込んだ。
「天之御中主神さま!?」
狐がとびきり甲高い声で叫ぶ。
「これはあなた様の力ですね!!! 今すぐ治めてください!」
「──やかましい」
失敗した、と臍を噛んでいるのは天之御中主神のほうだ。
明香里たちふたりは、すぐさま社の庇の下に戻って来た。手を繋ごうとする野望は阻止できたのに間違いないが、避難したふたりは突然の豪雨に互いの目を見て驚き、笑い合った。そして濡れてしまった男の髪を明香里は手提げの籠から出した小さなタオルで拭き始める。男は慌ててそれを止めて自分のハンカチで拭こうとしたが、何を思ったのかそれは明香里の頬を撫でた。
明香里は驚いたが、ふと笑みを零して受け入れた。そのまま互いに拭きあう形になる。
そんな姿に、天之御中主神はふん、と鼻を鳴らすしかない。
「──もう、俺は寝る」
「寝るって!!! そもそも睡眠も必要としていないのに!」
それでも背を向けて丸くなろうとする天之御中主神の背に、狐は怒声を浴びせる。
「雨は止ませてからにしてください! 天之御中主神さま!」
「あめあめ、うるさいのう」
そうは言うが、雨はぴたりと止んだ。
その様子に明香里たちは再び驚き見つめ合い、微笑み合うと歩き出す。今度はとても自然に男は明香里の肩を抱いていた。体をぴったりと寄せ合って雑踏に消えていくふたりの背を、天之御中主神は視界の端で睨むことしかできない。
(しょせん、俺とお前では──!)
奥歯を噛みしめるが、音すら響くことはなかった。
☆
それからも明香里は、変わらず水天宮に寄り道をする。
それを天之御中主神は、厨子から見ている。
ときめく心を懸命に抑えた。
明香里の参拝は、単なる習慣なのだと思うことにした。他にも通りかかった折に氏神に挨拶をして行く者は多い、そのうちのひとりなのだ。必死になにかを願う様子には気づかないことにした。
厨子の奥に置いた風鈴の簪を手にする。
「──もうお前は、俺の手を必要としている幼子ではないのだな」
この簪をしていた少女はもういない、成長しないのは自分だけ、それはよくわかった。見た目だけではない、心もだ。
「あなた様は、そもそも誰かひとりのために存在しているのではありません」
狐の声がした、厨子の前の床にきちんとお座りの姿勢で座り厨子を見上げている。
「あなた様は造化三神、万物の中心、あらゆる存在のバランスと保つ役目。そして水天宮に祀られてからは、安徳天皇様のお護りする立場」
「わかっておる」
「ならば、もう世俗はお捨てください。以前の懶惰な神にお戻りくださって構いませんから」
「──狐は一言多い」
溜息を吐いて身を小さくした、風鈴を身に抱え目を閉じる。
(思い出すくらいはいいだろう)
あの日、自分を頼り切って手を握り締めくれた小さな女の子の姿を。その手を取った時なんとも誇らしい気持ちになったことも。甘い香りとともによみがえるその記憶は、天之御中主神にとってはついこの間のような気がした。
(──もう一度くらい──)
小さな風鈴を頬にこすり付ける、もっともそれは何の感触もない。