好きになったのが神様だった場合
#5【奇跡の顕現】
そしてその年も例大祭はやってきた、水天宮に現れた明香里はひとり参道を歩く。
賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし二礼二拍手一礼をする。
社の奥を見つめた。いつもは閉じられている戸は例大祭の夜は開いている、奥にある厨子は何本もの蝋燭で照らし出されはっきりと見えた。
そこにいるはずの神様に向かって手を合わせ祈る。
(今年が最後だ)
唇を噛み締め、こぼれそうなる涙を懸命にこらえる。
(お願いだから──)
心の底から念じた。
「──最後にひと目、会わせてください」
思いは声になった。
「ひと目だけで、いいの……」
声は泣き声を含み、小さくなる。
「──なんと?」
厨子の奥に隠れていた天之御中主神は身を乗り出す。
鳥居をくぐった姿を見つけて、心が浮足立った。今年はひとりかと嬉しくなったが、昨年以来明香里に会う楽しみは封じていた、慌てて厨子の奥に潜みなおす。
幸いその後、明香里が男を連れて現れる事はなかったが、きっと自分が見ていないところで逢っているのだろうと思っていた。それを確認する術は天之御中主神は持っていない、天之御中主神は神域から出る事が叶わないのだ。今でこそ一ノ鳥居は無いが、そこを含む、かつての鎮守の森が天之御中主神の行動範囲である。
明香里がどこでなにをしているのか判らない、明香里が訪ねてくれることだけが楽しみだった。その明香里が今、泣きそうな瞳で社を見上げている。
「あと半年……」
微かな明香里の声に、天之御中主神は耳を澄ます。
「春には横浜を離れます、それまでにせめて……ううん、時々は帰ってくるけど、例大祭には、もう来られないかも……」
10年間、この日だけは特別だと思いずっと期待をしていた。幼き日に逢った少年との再会を。
「なんと!」
聞いて天之御中主神は声なき声で叫ぶ。
(逢えなくなる、そして娘は俺に逢いたいと言っている──!)
これまでになく熱い想いが胸にたぎった、だが顕現は叶わない。
「──どうすればいい!?」
焦る天之御中主神を、狐は面倒そうに視線だけで見上げただけだ。
その時、手を合わせたまま明香里の頬に、耐え切れずこぼれた涙が伝うのが見えた。
(泣いている──!)
10年前のあの晩のように、明香里が涙を──。
明香里は慌てて涙を指で拭った、祭りの晩に神社でひとり泣いている女など奇妙だ、慌てて拭いながら、踵を返した。
友人と来たときはゲームや飲食をして楽しんだが、ひとりで来れば雰囲気を味わい帰るだけだ、明香里の目的はあの少年に会いたいだけである。
昨年は初めて男性と来たが、なんだか落ち着かなかった。だったらひとりの方が気楽でいいと思ってしまった。
男といても、決して嬉しくなどなかった。誘われて断る理由も見つからず、いいよと応えてしまった事を深く後悔していた。
今年はひとりで来ようと心に誓った、幸い誰からも誘われなかったのは助かった。
天之御中主神はそれを厨子から見ていた、明香里が言葉を残しただけで去ろうとしている。狐の姿を借りて言葉を交わそうと思ったが、狐はなにを感じ取ったのか姿さえ見せない。
「ああ、駄目だ、行かないでくれ」
泣いたままでなど、行かせたくない。無駄だと判っていても体は依代を出て厨子を出て、社を抜けて明香里の前に立ちはだかる。
「泣くな、娘。お前は逢っている、俺はここにいる」
この姿の声は鼓膜を揺すらないとわかっているが話しかけていた、気持ちだけでも届けばと思ったがどうだろうか?
明香里は濡れた指先の涙を拭こうと思い、鞄から小さなタオルを出そうとする、動かしたその指先から僅かな一滴が石畳に落ちた。
その一滴は、まだ熱の残る石畳に当たると染みすら残さずすぐに消えた。
瞬間、焦燥に駆られていた天之御中主神の心臓が、途端にどくん、と脈打つ。
「──なんだ?」
心臓から送り出された血液が全身にしみわたるのがわかる。そもそも肉体を持たない神は心臓などないのに、それがその場所を知らせると言う事は──その期待は、実現した。
足裏に懐かしい感触があった、じゃり、と音の立てるのは草履越しの石畳だ。
明香里は2歩ほど先に人がいる気配を感じて視線を上げた。
子供がいるとすぐにわかり、息を呑んだ。十年前に出逢ったあの少年だ、まるでタイムスリップでもしたかのように、あの日の姿のまま立っている。おかっぱ頭で白い浴衣、青い帯に、青い鼻緒の草履──それを見て一瞬心が浮き立つも、淋しさに一気にしぼんだ。
十年前に出逢った少年が、そのままでいる訳がない。きっとよく似た別人だとすぐに判じた。
視線を落とし、脇に避け歩き出そうとしたとき光を感じた。
少年が光に包まれている、その光は大きくなった、おそらくそれは1秒か2秒かと言う短い時間だったろう。
その光が引くと、少年がいたはずその場所に歳の頃は二十歳ごろと見える男性が立っていた。
髪型こそ緩くルーズに揃えられたショートカットに変わったが、白い浴衣に紗綾形の模様が織り込まれた青色の帯は少年のものだった。足元は下駄に変わっているが、鼻緒はやはり青い。
先程は自分が子供と見間違えたのかと思えた、思い過ぎるあまりそう見えたのかと。
しかし顔立ちは少年の面影がある。凛とした目元にすっと通った鼻筋、色白なところは少し羨ましくも思う。たった一度逢った少年だが、間違いないと判った。ようやく彼に会えたのだ。
天之御中主神は長く息を吐いた。
子供の姿で顕現してしまったのは、以前の感覚の名残か。しかし目の前に見えた明香里の不安そうな表情を一瞬にして読み取った、この姿では駄目だと念じるとそれはすぐに叶った、全身が熱くなって体が伸びるのが判った。
眩しさが引いて目を開けると、驚く明香里と目が合った、驚いたその表情が甘く崩れるのを見て、天之御中主神は満足する。
(──よくやった)
自分で自分を褒めた。だが、明香里が再び頬を濡らすのを見る。
「また泣いているのか」
言うと明香里は笑みを浮かべた、とても綺麗な泣き笑いだと思った。
「──だって……」
明香里は少年に逢いたかった意味が、今やっと判った。