僕は夢を見る。そして、君は現実を唄う
第三話 なるべく、遠ざけたくて。

 土日を挟んだ休日明けの学校のはずが、土日が濃すぎたからか、久しぶりに感じた。窓から見る外はいつも通りの風景が広がっていて、特に彩られてはいなかった。何となく景色が変わる気がしたけれど、そんなことは微塵もなかった。目は良くなかったけれど、体操着姿の唄は、なぜか自然とすぐ見つけられた。唄は眼鏡をしていないようだったから、僕は見えていないのだろう。僕の目はテニスをして、動き回る彼女を自然と目で追っていた――。

「おーい、いつまで外見てんだよ」
「なんだ、石川か」
 石川によって現実へ戻されると、いつの間にか授業が終わっていて、唄は下駄箱の方へ向かっていた。唄を見た後の石川は何か物足りなくて、自然とため息を出た。
「今日はより一層だるそうだな」
 石川は弁当を僕の机に広げて、背もたれを前のままで目の前に座った。僕もバッグから小さな二段弁当を出して広げた。
「今日は俺の勝ちだな」
 石川は僕の弁当の中身を見ると得意げにそう言った。石川はドヤっているけど、それに対抗する気にもならない。
「別に負けても悔しくないし、何なら一生勝っててくれてていいよ」
 僕は手作りの卵焼きを口に含んで言った。
「俺たちにしかわかんないよな、この辛さ。うんうん」
「僕は作らなくちゃいけないけど、石川にはお婆ちゃんがいるだろ」
「やっぱり今の時代さ、料理ができない男はモテないと思うわけよ」
「元々モテてないだろ」
 僕の対応はいつもこんな感じで、石川はなんでこんな冷めた男と一緒にいてくれるのか。自分で言うのもあれだけど、前からずっと思っていた。
「あ、そういえば、どうよ副会長さん」
 石川は悪戯っぽく言ってきた。
「どうって、別に何もないよ」
 謎の後ろめたさに石川から目を逸らして、米を口に放り込んだ。
「白砂のこと紹介してくれよ」
「僕と、う……白砂はそんなに仲良くないよ」
「頼む! 俺ずっと気になってたんだよ」
 石川は僕の前で手を合わせて懇願してきた。石川が唄のことをずっと気になっていたのは知っていた。でも、ずっと可愛いと言っていただけだから、飽くまでもアイドルとか推しとかそういう部類だと思っていた。ここまでの頼み方だと本気なのかもしれない。だから口が裂けても、寝落ち電話だの、歌声聞いてるだの、それら全部が言えなくて、
「頑張ってみるよ」
 僕は大袈裟に気力のない返答をした。

 翌日、先週先生が言った通り生徒会室に来ていた。誰もいない生徒会室はとても静かで、淡々と流れていく時間がとても心地よかった。教室みたいに周りの心情の変化が激しくならないし、電車のように忙しない一日を過ごしたサラリーマンの疲労に触れることもない空間。「もういたんだ」「まあな」唄が入ってきても、それは変わらなかった。ペンの音とページを捲る音、風が入る音、それだけがこの空間を支配していた。それからどれくらい過ぎただろうか、気がつくと外の日は完全に沈んでいた。それを見て、帰ろうかと一瞬思った。今までの高校生活、一年と数ヶ月は放課後チャイムが鳴ったら直帰だったから、いつもと違う景色が広がっていた。太陽ではない光で彩られる景色は無数の小さな光が集まってできたもので、とても幻想的に見えた。
「どうしたの?」
 唄が僕の目線が窓にいっていることに気づいた。
「いや、綺麗だなって」
「この時間の外は確かに綺麗だよね」
 こんな人工物に心が奪われている自分に驚いた。星、自然、空、海は大好きだ。僕は初めて光に惹かれていた。
「なんでこんなに綺麗なんだろう」
 僕の口が勝手に動いた。答えようが無い質問。異様に唄の返答が気になった。
「人の努力が詰まってるからだよ」
 やっぱり綺麗な返答だった。まるで模範解答のような返事。
 ゆっくりと生徒会室のドアが開いた。
「よ!」
 米村先生の姿だった。
「こんにちは、いや、こんばんは?」
 唄は少しも悪びれない先生にわざとらしく言い直した。僕は会釈だけをした。
「二人とも、あの部活動の改革案な、好評だったぞ」
 それでもなお先生は謝罪の弁を一言も述べなかった。
「作った甲斐あったね!」
 唄は僕を見て言った。声に少し怒気が混ざっているのを感じたが、それ以上の深追いはしなかった。改革案に関しては、僕は何もしていないから、少し複雑な気持ちになった。
「今日は夏休み前にある球技大会の企画書を頼みたくてな。特に決まりはないけど、毎年ドッヂボールだから今年もそれでいいと思う。あと体育委員な、うまく機能させてあげてくれ」
「先生は何もしないんですか?」
 僕は先生が唄に任せすぎに感じた。
「そしたら二人いらないだろ?」
 ただでさえ、他校の生徒会より人数が少ないのに、先生が何もしなかったらいつか破綻する。
「それでも、ここまでやらせるもんなんですか? どうせ、暇でしょ」
「まだ部活動のことしかやってないじゃないか。あと若手はこき使われるんだよ、新が思ってるほど、私も暇じゃない」
 先生の言っていることはわかるし、確かに僕はそんなに仕事をしていない。だからこれは、僕が言うことじゃないかも知れない。
「それでも外枠とか決めてくれてもいいじゃないですか」
「⋯⋯どうした? 新らしくないな」
「僕らしいとかじゃなくて、何というか」
 先生は多分、いつもみたいに何か言われたら、はいはいと機械みたいに言うことを聞く僕がこんなに反論したことを僕らしくないと表現したんだと思う。でも、この先生の対応はなんか違う気がした。
 そもそも、僕らしいって何だよ。
「大丈夫ですよ」
 僕と先生の口調が荒くなってきた時に、唄が割って入ってきた。唄は先生を見て言った後に、少し黙って僕に笑ってみせた。
「……大丈夫だから。私、やっておきますよ。金曜日までに考えて、来週には体育委員集めてやれば、来月のそれには間に合いますよ」
 僕はそれを恐れていたんだと思った。その作ったような笑顔を見せる唄を見たくなかった。彼女が断る姿が想像できなかった。彼女の優しさに皆が甘えている状況が、安易に想像できた。何となくそれが嫌だった。別に情が湧いたとか、じゃなくて、過労で入院とかされると、僕の負担が増えるから。
「だそうだ。まあ本当にやばかったら手伝うから。よろしく」
 決まり文句のようなそれを言って、米村先生は生徒会室を後にした。

 1

「ねえ?」
 唄は氷のように固まった表情のまま僕に近づいてきた。
「何だよ」
 唄の顔は怒っているわけでもなければ、僕に落胆しているものでもなかった。ただ能面を被ったような表情をしていて、感情というものが全く読み取れなかった。
「新くんは何がしたかったの?」
 言われて思った。僕は何がしたかったんだろう。唄とはそこまで深い仲でもない。まだ初めて話してから一週間そこらの仲だ。保身で動いたはずなのに、先生からの評価はガタ落ちで、マイナスしかなかった。
「ごめん」
 出過ぎた真似をしたと自分でも思った。何をわかってるふうに話してんだって。今まで人を避けてきたやつのする行動とは思えない。俺のこれは流石に気持ち悪い。
「嘘だよ。私のこと思って言ってくれたんでしょ?」
 唄は笑って言った。優しく、惹かれるその笑顔。手慣れているように一瞬でその顔になった。
「ありがと!」
 でも、あの冷酷な表情が嘘だとはどうしても思えなかった。

 3

 帰りに本屋に寄った。大学卒業まで逆算して、月々の予算を決めていた。僕は指定校で大学に行く予定だから一般受験の人より、遥かに受験費用が浮く。生活費もなるべく抑えていた。暖房も冷房も付けずに、寒かったら着ればいいし、暑かったら煽げばいい。これもあれも全ては読書のため。そこまで好きでもないのに、なんで本にこんなに貢げるのか、自分でもわからなかった。お金は兄が貯めていた貯金と兄が死んだ時に入った死亡保険金。それと感謝の言葉をたくさん並べた女の子の親から、せめてものお礼という形で謝礼金。それと賠償金。切り崩す形だったから、お金の使い方には特に慎重だった。

 贅沢はしなかった。娯楽にもならなかったが、自分のために使うのは小説だけ。恋愛小説を探す本棚はいつも決まっていた。行きつけの本屋には毎週変わる恋愛小説コーナーがあった。店主の趣味なのだろうか。僕はこうして一週間に一回、曜日は決まっていなかったけど、背表紙を眺めては一週間分の本を買っていた。大体五冊くらい。『青春の学舎』、『渡月橋に沈む』、『君が死んだら僕も死ぬ』、『人のために生きる君は美しい』、この四冊を手に取ったが、『人のために生きる君は美しい』は本棚に戻した。この本を読んでも僕では理解できない気がしたから。

 家に帰ると、唄から電話がかかってきた。もう躊躇せずに出ることができるようになっていた。
「もしもーし」
「うん」
「何、うんって」
 唄は僕の返事に明るく言った。多分笑っている。何がそんな面白いのだろうか。
「今日もよろしくね」
「僕は何もしてないよ」
「確かにね」
 唄は喉を唸らせて、歌い始めた。それから十一時を回ったところで、僕は無理やり唄の声に重ねて「ちょっといいか?」と言った。唄は止まらずに歌い続けて、終わってから「ん?」と随分、時間差のある返事をしてきた。
「練習になってるのか?」
「なってるよ」
 感情が籠っていないのがわかった。
「本当か?」
「……正直、私ね、歌うのは好きだけど、練習は好きじゃないんだよね」
 少し間を開けて、唄は言った。少し理解できて、少し理解できなかった。
「プロなのにそんなこと言っていいの?」
「関係ないよ。聞いてくれる人がいなくなるのは嫌だから、今まで頑張ってたけど。今は新くんが聞いてくれてるから、その心配はないしね」
「何でそう思うの? いつ電話しなくなるか分からないじゃん」
「何でだろうね。よくわかんないけど、そんな気がする」
 根拠がないのに、信頼されるのはよくわからない。運動でも、勉強でも、功績があっての信頼だと思っていた。だから僕は誰にも頼られることなんてなかった。それに比べて唄はたくさん信頼されてきたんだと思う。信じて頼るなんて、それに相応する人間にしか任されないことだから、僕には少し重い気がした。
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