人魚姫
海上に出た人魚は、落日の炎に息をのんだ。うっとりと目を細めて、なんてきれいとつぶやく。熟れた果実に手を伸ばせば、指さきからひじまで赤く染まる。
あたり一面の海が燃えていた。振り返ると、背中に長い影が伸びる。影は、海岸にある人間の王国まで達していた。
人魚は歌った、初めての恋の喜びを。月明かりの下で見た、船上の王子。金の髪と紺碧の瞳を持つ、王国の至宝。あの嵐の夜から、どれだけのときが流れたか。人魚の想いは潮のように満ちて、月のように欠けることがない。
暗い影の海から、短剣を持つ白い手が産まれた。波打ちぎわに両腕がはい出して、濡れた女の顔が現れる。それは、悲しげな目をした人魚の姉だった。浜に立つ人魚は、姉の長い髪が失われていることに気づいた。
姉は人魚に短剣を差し出す。海辺の月よりも、さえざえと銀に輝くやいば。これで王子の心の臓をひと突き。そうすれば、人間の足は人魚の尾びれに戻る。王子に恋する前のお前にかえる。何もなかったのだ。すべては悪い夢だったと、波がさらってくれる。
魔女はけがれた体を引きずり、老女のようにしわがれた声で話す。知恵はあれども心はなく、誰かを愛することはない。
王子に恋した人魚は、魔女に助けを求めた。魔女は人魚に、乙女の声と引きかえに二本の足を授けた。もしも王子の心が手に入らなければ、王子を殺してしまえ。
陸に上がった人魚を、王子は城に置いた。人魚はしゃべることはできなくても、王子のそばにいられるだけで幸福だった。
たとえ王子が、嵐の夜に王子を助けたのは、人魚ではなく人間の娘と思いこんでいても。気まぐれな情けしか与えなくても。たったひと夜の思い出を抱いて、人魚は王子に仕え続ける。
だが人魚の力は足りなかった。心の臓に達さなかった短剣に、寝台で眠っていた王子が目覚める。なぜ、なぜと、血へどを吐きながら問う。
王子は、胸に刺さった短剣を引き抜こうとした。けれどふき出す血に恐れをなす。次に王子は助けを呼んだ。ところが誰も、部屋に現れない。
王子の瞳は怒りに燃えて、ぎょろりと人魚をにらみつけた。王子の手はのろわしく、人魚を捕まえようとする。美しいものしか知らない人魚は、恐怖に震えて逃げまどった。王子が獣のように咆哮する。人魚は、部屋のすみまで追いつめられた。
王子は太い腕で、人魚の細い首をしめる。人魚は短剣の柄をつかんで、王子の胸に押し入れた。怖い、怖い。はやく死んでちょうだい! 真っ赤な血が、人魚の指さきからひじまでを染める。
しかし若く頑健な王子は、まだ死なない。人魚の首を折ろうと、さらに力をこめる。人魚は王子の胸をえぐった。
王子の血を浴びて、魔女は踊る。色水の流れ落ちる舞台で、びちびちと飛び跳ねる。荒れくるう海の中、人魚は命がけで王子を助けた。乙女の声を失い、不慣れな人間の足で歩いた。
その代償を求めるのは、当然のこと。なぜ命をささげなくてはならない。なぜ海の泡にならなくてはならない。しかも王子は人魚ではなく、人間の娘に永遠のちかいをたてた。それは人魚の手に収まるべき赤い果実だったのに。
王子が人魚に触れたのは、たったひと夜のこと。人魚が愛を受けたのは、ひと夜にも満たぬひとときのこと。満天の星に見下ろされて、人魚は苦い蜜をのみほした。
尾びれが引き裂かれる痛みに乙女の声を失い、二本の足を得た。白い砂浜に一点の汚濁が落ちて、人魚はすすり泣く。人魚はけがれて、浅ましい女になった。
人魚は短剣を隠し持ち、王子の寝室に忍びこむ。けれど心はにぶった。愛する王子の命を奪うことはできない。私が海の泡になればいいだけ。すべてをささげる愛にしがみつき、人魚は短剣を捨てようとした。
だがそのとき、やいばの輝きがぎらりと増す。人魚はたまらずに目を閉じる。再び両目を開けば、人魚が失った尾びれが見える。人魚の姉が、そこにいた。
姉は言う。失われた私の髪をあわれに思うならば、王子を殺しておくれ。王子は深く眠っている。護衛の男たちは、私が眠らせた。今ならばお前の力で、王子の命をたつことができる。
人魚は疑うことができなかった。尾びれのある姉が陸に上がれるわけが、ましてや城に来られるわけがないのに。王子の胸を指し示す姉は、悲しい魔女の化けた姿だった。
王子の血によって、人魚に尾びれが戻った。しかし心は戻らない。たったひとりのかけがえのない王子をなくしたために、人間の王国はほろびた。
人魚は、死んだ王子を想って嘆く。ほろびた王国を眺めて悔いる。王子を愛していたのに、魔女にだまされてしまった。
けれど、いくばくかのときがたてば、新しい人間の王国がたつ。金の髪の王子が、頼りのない小さな船で海に出る。人魚は白い腕で風を誘う。しわがれた声で、嵐を呼び起こす。
そして王子に恋する人魚に人間の足を、妹を案じる姉に短剣を与える。寄せては返す波のように繰り返す、くるった恋の物語を歌い続ける。
ほの暗い海底で黒々とした海草に抱かれて、人魚は目覚めた。なんとおぞましい夢であったことか。ぬめりとした、血の感触がよみがえる。王子の心の臓をえぐり出したときの、歓喜にも似た感情。
この手に届いた太陽、赤く脈打つ恋の果実。人魚が首をしめられたぐらいで、死ぬわけがないのだ。
姉が優しくほほ笑む。不ぞろいの短い髪を、水の流れに遊ばせて。
何もなかったのだ。お前は私のかわいい妹のまま。すべては、悪い夢だったのだ。
あたり一面の海が燃えていた。振り返ると、背中に長い影が伸びる。影は、海岸にある人間の王国まで達していた。
人魚は歌った、初めての恋の喜びを。月明かりの下で見た、船上の王子。金の髪と紺碧の瞳を持つ、王国の至宝。あの嵐の夜から、どれだけのときが流れたか。人魚の想いは潮のように満ちて、月のように欠けることがない。
暗い影の海から、短剣を持つ白い手が産まれた。波打ちぎわに両腕がはい出して、濡れた女の顔が現れる。それは、悲しげな目をした人魚の姉だった。浜に立つ人魚は、姉の長い髪が失われていることに気づいた。
姉は人魚に短剣を差し出す。海辺の月よりも、さえざえと銀に輝くやいば。これで王子の心の臓をひと突き。そうすれば、人間の足は人魚の尾びれに戻る。王子に恋する前のお前にかえる。何もなかったのだ。すべては悪い夢だったと、波がさらってくれる。
魔女はけがれた体を引きずり、老女のようにしわがれた声で話す。知恵はあれども心はなく、誰かを愛することはない。
王子に恋した人魚は、魔女に助けを求めた。魔女は人魚に、乙女の声と引きかえに二本の足を授けた。もしも王子の心が手に入らなければ、王子を殺してしまえ。
陸に上がった人魚を、王子は城に置いた。人魚はしゃべることはできなくても、王子のそばにいられるだけで幸福だった。
たとえ王子が、嵐の夜に王子を助けたのは、人魚ではなく人間の娘と思いこんでいても。気まぐれな情けしか与えなくても。たったひと夜の思い出を抱いて、人魚は王子に仕え続ける。
だが人魚の力は足りなかった。心の臓に達さなかった短剣に、寝台で眠っていた王子が目覚める。なぜ、なぜと、血へどを吐きながら問う。
王子は、胸に刺さった短剣を引き抜こうとした。けれどふき出す血に恐れをなす。次に王子は助けを呼んだ。ところが誰も、部屋に現れない。
王子の瞳は怒りに燃えて、ぎょろりと人魚をにらみつけた。王子の手はのろわしく、人魚を捕まえようとする。美しいものしか知らない人魚は、恐怖に震えて逃げまどった。王子が獣のように咆哮する。人魚は、部屋のすみまで追いつめられた。
王子は太い腕で、人魚の細い首をしめる。人魚は短剣の柄をつかんで、王子の胸に押し入れた。怖い、怖い。はやく死んでちょうだい! 真っ赤な血が、人魚の指さきからひじまでを染める。
しかし若く頑健な王子は、まだ死なない。人魚の首を折ろうと、さらに力をこめる。人魚は王子の胸をえぐった。
王子の血を浴びて、魔女は踊る。色水の流れ落ちる舞台で、びちびちと飛び跳ねる。荒れくるう海の中、人魚は命がけで王子を助けた。乙女の声を失い、不慣れな人間の足で歩いた。
その代償を求めるのは、当然のこと。なぜ命をささげなくてはならない。なぜ海の泡にならなくてはならない。しかも王子は人魚ではなく、人間の娘に永遠のちかいをたてた。それは人魚の手に収まるべき赤い果実だったのに。
王子が人魚に触れたのは、たったひと夜のこと。人魚が愛を受けたのは、ひと夜にも満たぬひとときのこと。満天の星に見下ろされて、人魚は苦い蜜をのみほした。
尾びれが引き裂かれる痛みに乙女の声を失い、二本の足を得た。白い砂浜に一点の汚濁が落ちて、人魚はすすり泣く。人魚はけがれて、浅ましい女になった。
人魚は短剣を隠し持ち、王子の寝室に忍びこむ。けれど心はにぶった。愛する王子の命を奪うことはできない。私が海の泡になればいいだけ。すべてをささげる愛にしがみつき、人魚は短剣を捨てようとした。
だがそのとき、やいばの輝きがぎらりと増す。人魚はたまらずに目を閉じる。再び両目を開けば、人魚が失った尾びれが見える。人魚の姉が、そこにいた。
姉は言う。失われた私の髪をあわれに思うならば、王子を殺しておくれ。王子は深く眠っている。護衛の男たちは、私が眠らせた。今ならばお前の力で、王子の命をたつことができる。
人魚は疑うことができなかった。尾びれのある姉が陸に上がれるわけが、ましてや城に来られるわけがないのに。王子の胸を指し示す姉は、悲しい魔女の化けた姿だった。
王子の血によって、人魚に尾びれが戻った。しかし心は戻らない。たったひとりのかけがえのない王子をなくしたために、人間の王国はほろびた。
人魚は、死んだ王子を想って嘆く。ほろびた王国を眺めて悔いる。王子を愛していたのに、魔女にだまされてしまった。
けれど、いくばくかのときがたてば、新しい人間の王国がたつ。金の髪の王子が、頼りのない小さな船で海に出る。人魚は白い腕で風を誘う。しわがれた声で、嵐を呼び起こす。
そして王子に恋する人魚に人間の足を、妹を案じる姉に短剣を与える。寄せては返す波のように繰り返す、くるった恋の物語を歌い続ける。
ほの暗い海底で黒々とした海草に抱かれて、人魚は目覚めた。なんとおぞましい夢であったことか。ぬめりとした、血の感触がよみがえる。王子の心の臓をえぐり出したときの、歓喜にも似た感情。
この手に届いた太陽、赤く脈打つ恋の果実。人魚が首をしめられたぐらいで、死ぬわけがないのだ。
姉が優しくほほ笑む。不ぞろいの短い髪を、水の流れに遊ばせて。
何もなかったのだ。お前は私のかわいい妹のまま。すべては、悪い夢だったのだ。