久遠の空
自殺志願者




 死んだら人はどうなるのだろう。


 どこへ行くのだろう?


 理屈では、【無】になるというのは分かっている。


 だが、本当にそうなのか?


 当たり前ながら、死んだことがある人間はこの世には存在しない。


 死後の世界があるかどうかなんて誰にも分からない。



 俺は煙草の吸い殻を道端に投げ捨て、ポケットに両手を入れて再び歩き出した。


 目的地などなく、ひたすら名もなき道を彷徨い歩く。


 もうすぐ本格的な冬が訪れるというのに、薄手のジャケットでも不思議と寒さは感じなかった。


 もしかしたら、俺はもう死んでいるのではないか?


 死んだことに気づかずに、この世を徘徊している幽霊。


 しかし、この世に未練はないはずだが……。




「あのー、すみません」


 ふと、か細い声が風に紛れるようにして聞こえてきた。


 最初は自分に声をかけられているとは思わず、俺は思案顔で俯き加減に歩き続けた。



「……すみません。猫を見かけませんでしたか?」


 軽やかな足音とともに声が追いかけてきて、初めて自分が話しかけられているのだと気づいた。


 そこに立っていたのは、黒っぽいコートを着た若い女性だった。



「猫? どんな猫ですか」


「三毛猫です。目を離した隙に、逃げ出しちゃって……」


 立ち止まった俺にすがるような目つきで、女性が消え入りそうな囁き声で言う。


 猫は昔、実家で飼っていたこともあり、嫌いじゃない。


 人助けをする気分でもないのだが、何となく放っておけずに彼女の飼い猫を一緒に探すことにした。



「猫の名前は?」


「ミーです。三毛猫だからミー。安直ですよね」


 ふふ……と乾いた笑いをこぼす。


 冷たい風が吹くと同時に彼女はコートの襟をたぐり寄せ、ほっそりとした首をすくめた。


 長い髪がまるで生き物のように揺れている。



「ミーちゃん、いないですね」


「……ええ。どこか遠くに行ってしまったのかも」


 路地裏を探し回っても、猫の姿はどこにも見当たらなかった。


 彼女の声には落胆の色が滲んでいた。



「寒い中、付き合わせてしまってごめんなさい」


「いや、大丈夫ですよ。ミーちゃん、どこに行っちゃったんでしょうね」


 俺たちは近くの公園のベンチに座り、彼女がお礼に買ってくれた缶コーヒーを飲んだ。


 冷えていた身体が少し暖まるのを感じた。



「……死に場所を、探しているのかも」


「え?」


「猫って、死期が迫ると飼い主に死ぬ姿を見せたくないから、家からいなくなるって言いません?」


「あぁ……そんな話、聞いたことあります」


 俺は表情を変えずに頷きながら、彼女の飼い猫のミーと自分の姿を重ねていた。


 まぁ、猫は単なる寿命なのだろうが。


 自分が死ぬ時期を決めることができるのは人間だけだ。



「……あの、失礼なことをお聞きしてもいいですか?」


「何でしょうか」


「こんな夜中に何をされていたんですか?」


「……散歩ですよ。眠れなくて」


 俺は空になった缶を手のひらで弄びながら、とっさに嘘をついた。


 まさか、死ぬ場所を求めて彷徨っていたなんて言えるはずもない。


 ミーと同じですね、なんて言ったら彼女はどう反応するだろうか。



「……そうなんですね。生きていると、色々あって大変ですよね」


 彼女の呟いた言葉に含みがあることに気づく。


 何だか、全てを見透かされているような気分だった。


 上司と部下の板挟みで窮屈な仕事、結婚を望む彼女からの別れの言葉、疎遠になった両親との確執。


 死ぬまで続くであろう、人間関係の悩みが俺をがんじがらめにする。


 全てを投げ捨てて、逃げてしまいたい。楽になりたい。


 もう我慢の限界だった。



「死んだら楽になれますかね?」


「……」


 救いを求めるような気持ちで、俺はおもむろに口を開いた。


 彼女はしばらく無言だった。


 やがて、無表情で前を向いたまま、静かだが力強い口調で言った。



「私は神様じゃないから分かりませんけど。でも、そういう選択肢もあるんじゃないですか?」


「ありがとうございます」


「……でも」


 心の重圧が和らいだ瞬間、彼女は釘をさすように声を低くした。



「あなたはまだ、死んではいけないわ」


 なぜ、と目で問いかけると、彼女は衣擦れの音をさせてベンチから立ち上がった。


 その拍子に何かが落ちた。


 それを見て、微動だにできなかった。


 彼女の後ろ姿が見えなくなると、俺はやっと緩慢な動作で彼女の落とし物を拾い上げた。



 その翌日、近くで殺人事件が起きたことをテレビで知った。



『昨夜10時半頃、20代の男性がアパートの一室で刃物で胸を刺され、倒れているところを近隣の住人が発見しました。男性は搬送されましたが、病院で死亡が確認されました……』



「自殺志願者は殺す価値もない」


 彼女が去り際に呟いた台詞を思い出す。


 自宅に戻った俺は、彼女の落とした血まみれの包丁をぼんやりと見つめていた。


 俺が自殺志願者じゃなければ、殺してくれたかもしれないのにな……。


 何とも皮肉な運命に笑うことしかできない。


 彼女にもう一度会ってこの落とし物を返すまでは、どんな形でも生きていようと決心した。


 それは生への執着などではなく、死への渇望にも似た感情と言っても過言ではなかった。




【自殺志願者・完】



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