プロメテウスの復讐〜わたしの愛した黒豹執事〜
黒豹の執事※アルノー視点
オリーヴィアが眠るのを確認すると、俺は部屋から退室する。
シュタウフェンベルク城に雪が降り積もるしんしんとした音が響く。あの娘も長年の月日をかけて、俺に調教されるようになったものだ。
思い起こせば俺がこの城に来たのは、ちょうど六歳のころになるだろうか。
ユーディト・リーデンブルク率いるエルザ守護騎士団の辺境伯軍に、オリーヴィアの父親であるアルフレッドもいた。
奴らの目的は、獣人達との外交に失敗した事を隠し、反乱というでっちあげで軍事力を使い領地と資源の略奪することだった。
遠い昔、獣人の誇り高き王が凍える人間に『火』の扱いを教えてからと言うもの、奴らは数を増やし、力を得てみるみるうちに文明を発展させた。
やがて、獣人と人は対立し合うようになり、俺たちが住む領地はみるみるうちに奪われ、北へ北へと追われた。
そして二十年前のあの日『プロメテウス掃討作戦』で最後の獣の王が殺された。
美しい王妃や姫君は陵辱され、獣人の王族は無惨に殺された。
多くの女達は奴隷として連れて行かれ、行き場をなくした男達や老人、子供達はこの辺りで物乞いや肉体労働、そしてその特性を生かして低賃金で働くほか無かった。
俺は、身分を偽り父上の部下達によって孤児として奴隷商人の元へ売られた。
王族の最後の血を引く俺さえ生きていれば、虫けらのように獣人たちを手に掛けた、残虐なリーデンブルク家と、母上と姉上を陵辱したあの、薄汚いアルフレッドに復讐する事ができる。
それから、奴隷商人の館から逃げ出した俺は、ありとあらゆる知恵を巡らせ、まずはアルフレッドが所有する奴隷になる為に力を尽くした。
『黒豹の獣人か。滅びの王と同じ種族だな。ふん、見てくれだけは良いガキだ。俺の靴磨きや肥溜めの掃除係にでもお前を買ってやろう』
俺はアルフレッドの靴に跪き、足に口付けをして屈辱に耐えた。汚らわしい男の排泄物を手で処理することも厭わなかった。
どんな罵倒も無理難題な要望も、主人の為に忠実に正確にこなす。
さらには人間の文化や習性を学んで、好ましい態度を取るようにした。
それもこれも、全ては復讐のためだ。
そうこうしていく俺は、徐々にアルフレッドと夫人の信頼を得る事に成功する。
薄汚い格好から、やがて使用人としてマシな服を与えられようになり、庭の手入れや暖炉の掃除など言い渡されるようになった。
あれは穏やかな春の日のこと。
開いた扉から見えた、風に揺れるカーテンと赤ん坊の声に俺は立ち止まった。
あれが生まれたばかりの『オリーヴィア』なのだろう。夫人がいない事を確認すると、俺は部屋に入って静かに歩み寄った。
(――――オリーヴィア。アルフレッドの愛娘か)
健やかに眠る赤ん坊の顔を見ると、抑えきれない怒りが湧いてきた。父親の凶行など知らず健やかに眠る赤子。
この娘の命は、俺が手を伸ばせば一瞬で消すことが出来るだろう。アルフレッドも夫人も哀しみと絶望のどん底に落とされるはずだ。
だが、俺が味わった悲しみや憎しみなどお前たちに分かるはずも無い。
(哀れなオリーヴィア。父親を恨め)
俺は、赤ん坊の首に手をかけようとした。
その瞬間、オリーヴィアの薄茶色の瞳が開かれ、俺見るなり微笑みを浮かべたかと思うと、小さな手の指を伸ばして、俺の手を掴んだ。
温かな生まれたばかりの指先が触れ、俺は情けない事に、この娘を手に掛ける事を躊躇してしまったのだ。
触れた瞬間に感じた、この感覚はなんだろう。
『…………』
この娘は、殺すよりも別の方法で利用できるかも知れない。
俺はそう思い直すと、今度はオリーヴィアに信頼されるように振る舞う事にした。
✤✤✤
オリーヴィアが、十歳になる頃には、俺は彼女の遊び相手という役目を任されるまでになっていた。
シュタウフェンベルク夫人は、厳格な性格で自分の気に入った貴族の子供や、娘の教育に悪影響を与えない教育係を、遊び相手に選んでいたようだった。
もちろん、その中には下賤の獣と罵りながらも、シュタウフェンベルク家にとって無害で忠誠を尽くすこの俺も入っている。
あれは五の月だったろうか、夫人が人間の貴族の女達とティー・タイムで下らない世間話に華を咲かせていたころ、俺とオリーヴィアは庭先でピクニックの真似事をしていた。
オリーヴィアは、夫人やアルフレッドと違い内向的で、人の顔色を伺うような所が仇になっているのか、友人と呼べるような相手は今でも少ない。
動物か俺だけが話し相手になっている。
彼女の性格は支配しやすく、手なずけるには、格好の餌だった。
オリーヴィアは、こんな時でも手放さない本を閉じると遠慮がちにふと俺を見た。
『アルノー、あと二年したらお父様の執事になるの? そうしたら、わたくしとあまり遊べなくなるのかしら』
『ええ。アルフレッド様の身の回りのお世話を、今以上に出来ると言うことはとても光栄な事ですが……。けれど、心配はなさらないで下さいませ。オリーヴィア様のお話相手は引き続き務めさせて頂ますよう、お願いしております』
十八になれば、俺は家令に次ぐ執事の地位に着くことが許される。そうなれば今よりも動きやすくなるだろう。
オリーヴィアは、不安げにしていたが変わらず友人のように話し相手になってくれると分かると、安堵したように微笑んだ。
『ねぇ、アルノー。メイドに聞いたのだけれど、アルノーも獣の姿になれるって本当なの? わたくしは、ときどきお手紙を運んでくる鳥の獣人しか知らないわ』
『ええ。私も彼と同じように獣の姿になれますが……、その事はあまり他で話してはなりませんよ。特に奥様は、獣人がお嫌いですから厳禁です』
『どうして? わたくし……アルノーが獣になる姿をみたいの』
オリーヴィアは、目を輝かせて懇願した。
動物が好きなこの娘は、俺が兎や小鳥のような小動物や、犬猫になるのだと思っているのだろう。誇り高き獣の王の血を引く俺の姿を見れば、怯えて泣き出すに決まっている。
『旦那様と奥様から、獣の姿になる事はきつく禁じられておりますので……』
『だれにも言わないわ! ほんのすこしだけの間でいいから見たいの』
泣き出しそうな顔で懇願されると、俺は溜息をついた。オリーヴィアはか弱い人間の娘だが一度言い出すと、曲げないような頑固なところがある。
『オリーヴィア様。それでは誰にも言わないと約束して下さいませ。私と貴女の秘密です』
『わたくしと、アルノーだけの秘密ね』
俺は久しぶりに黒豹の姿に変わると、オリーヴィアは、泣き叫ぶどころか目を見開いて輝かせていた。
そして、白い頬を上気させながら俺に触れると何度も撫でながら嬉しそうにする。
『アルノー、とても綺麗だわ……ふわふわの毛並みにつやつやの黒……。滅びの王……ヘイミル王みたい』
そう言うと首元に抱きつき嬉しそうにすり寄った。アルフレッドの娘から誇り高き父の名前を聞くなんて怖気立つ。
だが、俺はオリーヴィアに撫でられ、こうして体を寄せられる事に、不思議と抵抗感も嫌悪感も抱かなかった。
辺境の人間たちはだれもが、王の姿に恐れ戦いたものだが、今すぐにでも喉元に噛み付いて、息の根を止められてしまいそうな状況にあるというのに無防備に、か弱いその体を押し付けてくるこの娘を受け入れていた。
『さぁ、もう人の姿に戻りますよ。そろそろランチの時間になりますから』
『もう? また獣の姿になってくれる?』
『そうですね……貴女が大人になった時になりましょう』
そうだ。
全ての復讐が終わり、お前の喉に牙を突き立ててやる時にはこの真の姿になってやろう。
幼い少女の体温に安堵した自分の心を凍てつかせるように、俺は心の中で吐き捨てた。
オリーヴィアは俺の駒に過ぎない。
どれだけ、彼女の心が無垢で罪が無くとも滅ぼされ、死んでいった仲間の復讐こそ俺がこの世に存在し生きている意味なのだ。
アルノーと一緒にいたい、ギルベルトの元には嫁ぎたくないと言う彼女の不安げな表情を脳裏から消すように、俺は表情を凍らせた。