プロメテウスの復讐〜わたしの愛した黒豹執事〜
偽りの晩餐会
数日、荒れ模様だったお天気も、今日は穏やかな日差しで雪が溶けていました。
お父様は、雪のために延期されていた晩餐会をとても楽しみにしておりました。
女主人に招かれた貴族たちは、どの方々もスラティナ地方では名の知れた方々です。
『プロメテウス』の英雄と呼ばれた、引退されたエルザ守護騎士やそのご子息、有名な音楽家や、貴族……私の親戚なども来る予定になっております。
その中には、リーデンブルク辺境伯と老いを知らないほどの、美しい辺境伯夫人。
そして現騎士団長であるギルベルト様もいらっしゃいます。私は、定刻が近付くにつれて段々と憂鬱な気持ちになっていきました。
その理由は、お父様とお母様が私とギルベルト様の婚約を、みなさまの前で発表するのだろうと思っているからです。
令嬢たちの誰もが羨む良縁でしょう。
「オリーヴィアお嬢様。そろそろ晩餐会用のドレスにお着替えになりませんと、お時間に遅れてしまいますよ」
「――――アルノー。私は気分が乗らないわ。体調が悪いと言って断ろうかしら」
シトラールティーを用意して部屋に入ってきたアルノーは、晩餐会用のドレスに着替えず、銀世界に夜の帳が降りる様子をじっと眺めていた私を、心配するように声をかけてきました。
私の気持ちなど、当然聞き入れられるはずもありません。
少しでも不満そうな表情をするとお母様の目は釣り上がり、私は頬を打たれました。
お母様は昔から神経質で、私は機嫌を損なわないように細心の注意を払わなければなりませんでしたが、今日という特別な日は舞踏会の時とは比べ物にならないでしょう。
「いけませんよ、オリーヴィア様。今日はリーデンブルク辺境伯もご出席されますから、お嬢様が出席しなければ、旦那様のお顔に泥を塗ることになります。侍女も困り果てているようでしたよ」
「ええ。分かっているわ……。アルノーが着替えを手伝ってくれるなら我慢する」
まるで、子供のように頬を膨らませ、私は駄々をこねてしまいました。
その自覚はあるのですが、私にとって望まぬ相手との結婚は、死刑囚が処刑台に向かう前のような気持ちになのです。けれどこんな身の程知らずな我儘を、冗談で口にできる相手はアルノーの他には誰もおりません。
「仕方ありませんね、お嬢様。それでは私がドレスを着替える準備を手伝いましょう。……侍女には内緒ですよ」
「あ、アルノー……?」
もちろん、そんなつもりはありませんでしたが肩に掛かったアルノーの熱い手の平と、耳元で聞こえた獣人の熱い吐息に私は何かを察したように顔を上げました。
アルノーの唇が、私の唇を塞いで甘噛みされるとそれを合図に心臓が徐々に高鳴るのを感じました。
私の初めての口づけの相手は、アルノーです。
ほんの少し背伸びをして教員係から目を盗んだ私は、毎日少しずつ悲恋の物語を書いた小説を読んでいました。
ずる賢い宰相の策略にかかった王族が滅び、囚われの王子様と宰相の娘が恋に落ちるという、悲しいけれど、美しいお話の虜になってしまったのです。
その時の私はまるで、自分が主人公になったような気持ちで物語を読んでいました。
恋人同士の甘い口づけに、憧れを抱いていたのです。
『アルノー、恋人同士のキスはご挨拶のキスとどう違うの? 教えてほしいの』
『しかし……』
何せ私はまだ十六歳でした。
アルノーも、最初は困惑した様子で嗜めましたが、引き下がらない私についに負けて、優しく口づけを教えてくれました。それからと言うもの、私とアルノーだけの禁じられた遊びが始まったのです。
まさか、もうお客様が来られると言うのに『秘密の遊び』をするのでしょうか?
柔らかなアルノーの舌が私の間に入ってくると、優しく誘うように絡められます。
どうして、舌を絡めると心地がよく意識が遠のいていくのか、私にはよく分からないのですが、私の心を探るように淫らに動かされると、その度に飲み込まれてしまいそうな快感を感じるのです。
私が我儘を言うと、こうして口を塞いであやしてくれます。
意地悪な美しい執事の甘い口づけに、私は何時ものように腰が抜けてしまいそうになりました。
「ん……んん、アルノー」
「はぁ……。オリーヴィア様。時間は有限ですよ。美しいドレス姿でギルベルト様を魅了するのです。リーデンブルク家の一族になれば、貴女は幸せになれるのですからね」
本当にそうでしょうか。
光の加減によって見える、金と緑の黒豹の瞳からは、彼の本当の気持ちはわかりません。
私が世間知らずなだけでしょうか。
リーデンブルク辺境伯はとても裕福な名家ですし権力もありますから、私も一生困ることなく妻としての役割を果たす事が出来るのは明白です。
けれど、蜘蛛の糸が心の中に張り巡らせていくような孤独感を感じるのです。
ゆっくりとドレスを脱がされると、背後から私の乳房を揉まれると、私の吐息は知らず知らず漏れてしまい、メイド達に聞かれぬように両手で口を塞ぎました。
「だめ、お客様が」
「お静かに、お嬢様。部屋の外で侍女が控えておりますから……私と貴女様のお遊びが見つかってしまいますよ」
耳元で囁かれ、分厚い舌先で舐められると思わず声が大きくなってしまい、唇をぎゅっと閉じてしまいました。
私は耐えられず、甘い声をあげてアルノーを見上げました。
「声が、漏れちゃう」
「獣人の耳は人族より敏感なのです。侍女がオリーヴィアお嬢様の淫らな声に反応しているようですよ」
わずかに残った理性では、婚約の前になんてふしだらな事をしているのでしょうと恥じながらも、彼の指先は心地よくとても抗えないほど……。
それは、魅惑的な誘惑でした。
私はいつしか、アルノーとの秘密の遊びを心待ちにし、触れられる事に幸福感を抱いていたのです。
本当はもっと、頻繁に触れ合っていたい……そんな恐ろしい事を考えてしまうくらいに夢中になっていました。
「静かにするから」
「オリーヴィア様のお望みのままに」
アルノーの瞳が冷たく輝きました。
私には幼い頃から優しかったけれど、どこか冷たい氷の壁のようなものを感じて、時々どうしようもなく切なくなります。
私が人で、アルノーが獣人だからでしょうか。
私の体をベッドに寝かしつけると、いつ侍女や、お父様、お母様が私の部屋に入ってくるか分からないのに、アルノーの口付けられ愛撫されただけで、はしたない気持ちになるのです。
「おや……そんなにも私を待ち望んでいらっしゃったのですね? これから、名家の貴族やご子息、ギルベルト様とお食事になられると言うのに」
また、あの頭が真っ白になってしまう感覚に私の瞳から涙が溢れました。
頭が痺れてどここに行ってしまいそうな感覚は、何度経験しても慣れず、心臓の鼓動が早くなって自分ではなくなってしまいそう。
恐れを感じながらも、貪欲にアルノーを求めてしまいそうです。
シルクのハンカチで濡れた私の不浄の場所を綺麗に拭き取ると、乱れた私を覗き込むようにアルノーは言います。
「さぁ、オリーヴィアお嬢様。そろそろ晩餐会のドレスに着替えましょう」
アルノーはにこやかに微笑みます。
シュタウフェンベルク家の我儘な娘の世話をしているというだけなのでしょうか。
私はまだ、もの足りずどこか寂しい気持ちを抱いて、火照ったままの体を支えるように起こされながら呟きました。
それは、聞き取れるかどうか分からないほど小さな声で。
「アルノー、私をどこか遠くに連れ去って欲しいの」