プロメテウスの復讐〜わたしの愛した黒豹執事〜
潜入者(※アルノー視点)
亡き父の教えは、今でも俺の心の中に宿っている。気高き獣は決して己を慢心せず、獲物に手の内を悟られてはいけない。
アルフレッドは用心深い性格だったが、人間の奴隷になることを喜びとし、プライドの高い性格を逆手に取ってあの男を喜ばせた結果、オリーヴィアの主従としてリーデンブルク家に潜入する事が出来た。
ユーディトは人間の奴隷を召使いにしても、獣人を側に置くことに抵抗感、いや『プロメテウス』以降、ヘイミル王の呪いを恐れて遠ざけているのだと言う。
だからこそ俺は、まずシュタウフェンベルク家に潜入し、部下の信頼を得ることにした。
ユーディトは貴族の間では厳格で立派な指導者だと言われているが、内心は迷信を信じ臆病で、私生活はだらしなく乱れているという情報を仕入れた。リーデンブルク辺境伯の前妻は慎ましやかな夫人だったが子宝に恵まれなかった事で夫婦仲は冷え切っていたと言う。
ユーディトは不貞を働き、ギルベルトを授った愛人は彼女を追い出し後妻の地位を奪い取った……しかし。
『リーデンブルク辺境伯夫人は、ずいぶんと浪費家のようですわ。いくら富を築いていても間に合いませんわね。オリーヴィアの持参金だけで本当に足りるのかしら』
『リーデンブルク辺境伯の家令は年寄りでな。財産管理や土地管理にも人手がほしいと嘆いていたそうだ。浪費家の夫人とも折り合いが悪い。アルノーの優秀さは伝えておる……ユーディトは渋っていたが、今や獣人をいかに上手に扱えるかが存続の鍵だ』
人間より身体能力が優れた獣人を扱えるようになれば、こぜり合いの続く隣国との戦も有利に運び、生活も豊かになるとアルフレッドは考えていたようだ。
夫婦の会話を聞き、俺は珈琲を出しながら内心ほそく笑む。リーデンブルク家の財産を管理出来るならば内側から崩壊させる事ができる……そしてギルベルトの妻になったオリーヴィアに俺の子を産ませようか。
財産を失い、没落していくリーデンブルク家に待望の嫡男が生まれたと思ったら半獣の子供。その醜聞はパウロ陛下まで届くだろう。
そして、一家は服毒自殺を図る……そのための毒はもう入手してある。
獣人と人間の間に子供がいるのは売春婦だけだ。それが令嬢の娘となれば、シュタウフェンベルク家は一生の恥だろう。厳格に育てた己の娘がまさか獣人と交わり子供を産むなど考えもしない。
一生貴族どもに指を刺され、傲慢なプライドをへし折られるがいい。姉上や母上を陵辱したお前には相応しい罰だ……俺は落ちぶれたお前達をいたぶりながら殺してやりたいほど憎んでいる。
オリーヴィアは……シュタウフェンベルク家へ戻る事無く勘当され、うまく行けば修道院にでも入れられて静かな余生を過ごせるだろう。
それも許されないのならば彼女をどこかに……。
――――俺はまだ、彼女の存在をどうするか決めかねていた。
あの日、奴隷商人から逃れた時からリーデンブルク家もシュタウフェンベルク家も根絶やしにしてやると誓った。
オリーヴィアの望み通り、黒豹の姿になって彼女の首に噛み付く事も考えたが、その思いも数年前に消え去ってしまった。
結婚式を終えて、馬車から降りてきたオリーヴィアは……美しかった。
お世辞でも何でもない、美しい花嫁だった。
雪の結晶を纏ったレースのドレスをなびかせる彼女は、まるで雪解けに咲き始めた野花のように可憐でガラス細工の女神。
だが、オリーヴィアの表情は強張っているように思える。
新しい環境への不安と期待で緊張しているという単純な理由でない事は、長年仕えてきたこの俺だからこそわかる変化だった。
結婚式の段取りがうまくいかなかったのか、それとも――――。
こちらに視線を向けたオリーヴィアの瞳が俺に助けを求めていた。まるで監獄にでも連れて行かれるような不安そうな顔だ。
束の間でも、裕福な男と新婚生活をおくれるのならば不満は無いだろうと思っていたが、その日から彼女の目が焼き付いて離れなかった。
✤✤✤
リーデンブルク家の内情は『プロメテウス』で名声を得たものの、数年後起こった隣国との宗教戦争で膨大な貸付金を回収できず台所事情は苦しいようだった。
それに加えて、リーデンブルク辺境伯夫人のアルマの浪費癖が拍車をかけている。
シュタウフェンベルク家は裕福なだけに、オリーヴィアの持参金はリーデンブルク家にとって助け舟になった。
アルマ夫人の性格は奔放で、気まぐれだったが大人しく貞淑な義娘をそれなりに気に入っているようだった。
口答えせず、言う事を聞くオリーヴィアが都合が良かったのだろう。
だが、新婚初夜が上手くいかなかったせいか、ユーディトとギルベルトは苛立ちを抱えているように思えた。
貴族は、花嫁の純潔の証をエルザの巫女に見せる決まりがある。メイドの話によると、どうやら朝までに初夜が間に合わず、家畜の血を濡らしたシーツを教会に手渡し欺いた。
そのせいかギルベルトは別棟に愛人を連れ込み、欲求を満たす。執事もメイドも両親でさえもその不貞を見て見ぬ振りをしてるようだ。
彼女の純潔も疑われたが、ともかく息子との間に嫡男を作るようにとオリーヴィアに圧力をかけている。
――――計画に狂いが生じるな。
俺はそう心の中で呟きながら、オリーヴィアの為にシトラールティーを用意した。夫婦の寝室ではなく、就寝前のこの時間ならば彼女の書斎にいるだろうと向かっていると寝室の方から小さな悲鳴が聞こえた。
俺は、反射的に走ると扉の前に立ってノックした。
「オリーヴィアお嬢様! ギルベルト様! いかがなさいましたか」
「――――何でもない。下がれ」
一瞬、無音になり弾かれたように小さな足音が走り寄る音がすると扉が開かれた。
髪を乱して蒼白になったオリーヴィアは激しく破かれた寝間着を抑えながら、涙を浮かべて座り込んだ。
小さく小刻み震える様子からしても、ギルベルトが無理矢理オリーヴィアを抱こうとしていた事は理解した。
怯えるオリーヴィアの肩を抱くと、背後から髪をかき上げながら気怠そうに冷たい視線を向けたギルベルトが現れた。
「戻れ、オリーヴィア。夫を恐れる必要はないだろう? 生涯純潔を誓った修道女でもない、お前は私の妻だ」
ギルベルトがオリーヴィアの手首を乱暴に掴んだ瞬間、彼女は恐怖のあまり嘔吐してしまった。俺はハンカチでそれを受け止めると、ギルベルトを睨みつけた。
「――――ギルベルト様。オリーヴィア様は体調がすぐれないご様子です。リーデンブルク家の嫡男をお産みになる大切な奥様を大事にされませんと……いずれ、シュタウフェンベルク伯爵様にもお耳にも届くでしょう」
ギルベルトは俺を見下ろしながら、舌打ちした。リーデンブルク家の義務、妻が自分を受け入れない苛立ちと、これまでどんな女も俺を受け入れ、拒まれた事が無いと言うこの男のプライドが見え隠れする。
そして、獣人である俺へ向けられた侮蔑の眼差し。
驚くほど俺は、オリーヴィアを犯そうとしたこの男に言いしれぬ憎しみの感情を抱いていた。
「――――介抱してやれ。別棟にでも連れていくといい」
冷たく突き放すように捨て台詞を吐いて扉が閉まると、俺は彼女の震えが止まるまで抱きしめてやった。オリーヴィアは涙を流しながら、ようやく絞り出すように言葉を発した。
「ごめんなさい、アルノー」
「――――いいえ。外の空気に触れましょう。今日は来客もありませんから、別棟でゆっくり休まれて下さい」
俺は腰の抜けたオリーヴィアの華奢な体を抱きあげた。ふと、窓に映った外の風景を眺める。
外にぼんやりと浮かぶのは寄り添うように立つ、無表情な雄々しき滅びのヘイミル王と気高き獣の王妃。
ときおり現れる彼らは俺の頭の中で作り出された幻影か、それとも亡き父と母の亡霊なのか。
オリーヴィアとの優しく穏やかな日々が、復讐の誓いを遠い日のように思わせてしまう。
――――あの惨劇を忘れたのか。
――――あの屈辱を忘れたのか。
――――お前が生かされている理由は復讐だ。
声なき声が俺を責めたてているように感じた。
アルフレッドは用心深い性格だったが、人間の奴隷になることを喜びとし、プライドの高い性格を逆手に取ってあの男を喜ばせた結果、オリーヴィアの主従としてリーデンブルク家に潜入する事が出来た。
ユーディトは人間の奴隷を召使いにしても、獣人を側に置くことに抵抗感、いや『プロメテウス』以降、ヘイミル王の呪いを恐れて遠ざけているのだと言う。
だからこそ俺は、まずシュタウフェンベルク家に潜入し、部下の信頼を得ることにした。
ユーディトは貴族の間では厳格で立派な指導者だと言われているが、内心は迷信を信じ臆病で、私生活はだらしなく乱れているという情報を仕入れた。リーデンブルク辺境伯の前妻は慎ましやかな夫人だったが子宝に恵まれなかった事で夫婦仲は冷え切っていたと言う。
ユーディトは不貞を働き、ギルベルトを授った愛人は彼女を追い出し後妻の地位を奪い取った……しかし。
『リーデンブルク辺境伯夫人は、ずいぶんと浪費家のようですわ。いくら富を築いていても間に合いませんわね。オリーヴィアの持参金だけで本当に足りるのかしら』
『リーデンブルク辺境伯の家令は年寄りでな。財産管理や土地管理にも人手がほしいと嘆いていたそうだ。浪費家の夫人とも折り合いが悪い。アルノーの優秀さは伝えておる……ユーディトは渋っていたが、今や獣人をいかに上手に扱えるかが存続の鍵だ』
人間より身体能力が優れた獣人を扱えるようになれば、こぜり合いの続く隣国との戦も有利に運び、生活も豊かになるとアルフレッドは考えていたようだ。
夫婦の会話を聞き、俺は珈琲を出しながら内心ほそく笑む。リーデンブルク家の財産を管理出来るならば内側から崩壊させる事ができる……そしてギルベルトの妻になったオリーヴィアに俺の子を産ませようか。
財産を失い、没落していくリーデンブルク家に待望の嫡男が生まれたと思ったら半獣の子供。その醜聞はパウロ陛下まで届くだろう。
そして、一家は服毒自殺を図る……そのための毒はもう入手してある。
獣人と人間の間に子供がいるのは売春婦だけだ。それが令嬢の娘となれば、シュタウフェンベルク家は一生の恥だろう。厳格に育てた己の娘がまさか獣人と交わり子供を産むなど考えもしない。
一生貴族どもに指を刺され、傲慢なプライドをへし折られるがいい。姉上や母上を陵辱したお前には相応しい罰だ……俺は落ちぶれたお前達をいたぶりながら殺してやりたいほど憎んでいる。
オリーヴィアは……シュタウフェンベルク家へ戻る事無く勘当され、うまく行けば修道院にでも入れられて静かな余生を過ごせるだろう。
それも許されないのならば彼女をどこかに……。
――――俺はまだ、彼女の存在をどうするか決めかねていた。
あの日、奴隷商人から逃れた時からリーデンブルク家もシュタウフェンベルク家も根絶やしにしてやると誓った。
オリーヴィアの望み通り、黒豹の姿になって彼女の首に噛み付く事も考えたが、その思いも数年前に消え去ってしまった。
結婚式を終えて、馬車から降りてきたオリーヴィアは……美しかった。
お世辞でも何でもない、美しい花嫁だった。
雪の結晶を纏ったレースのドレスをなびかせる彼女は、まるで雪解けに咲き始めた野花のように可憐でガラス細工の女神。
だが、オリーヴィアの表情は強張っているように思える。
新しい環境への不安と期待で緊張しているという単純な理由でない事は、長年仕えてきたこの俺だからこそわかる変化だった。
結婚式の段取りがうまくいかなかったのか、それとも――――。
こちらに視線を向けたオリーヴィアの瞳が俺に助けを求めていた。まるで監獄にでも連れて行かれるような不安そうな顔だ。
束の間でも、裕福な男と新婚生活をおくれるのならば不満は無いだろうと思っていたが、その日から彼女の目が焼き付いて離れなかった。
✤✤✤
リーデンブルク家の内情は『プロメテウス』で名声を得たものの、数年後起こった隣国との宗教戦争で膨大な貸付金を回収できず台所事情は苦しいようだった。
それに加えて、リーデンブルク辺境伯夫人のアルマの浪費癖が拍車をかけている。
シュタウフェンベルク家は裕福なだけに、オリーヴィアの持参金はリーデンブルク家にとって助け舟になった。
アルマ夫人の性格は奔放で、気まぐれだったが大人しく貞淑な義娘をそれなりに気に入っているようだった。
口答えせず、言う事を聞くオリーヴィアが都合が良かったのだろう。
だが、新婚初夜が上手くいかなかったせいか、ユーディトとギルベルトは苛立ちを抱えているように思えた。
貴族は、花嫁の純潔の証をエルザの巫女に見せる決まりがある。メイドの話によると、どうやら朝までに初夜が間に合わず、家畜の血を濡らしたシーツを教会に手渡し欺いた。
そのせいかギルベルトは別棟に愛人を連れ込み、欲求を満たす。執事もメイドも両親でさえもその不貞を見て見ぬ振りをしてるようだ。
彼女の純潔も疑われたが、ともかく息子との間に嫡男を作るようにとオリーヴィアに圧力をかけている。
――――計画に狂いが生じるな。
俺はそう心の中で呟きながら、オリーヴィアの為にシトラールティーを用意した。夫婦の寝室ではなく、就寝前のこの時間ならば彼女の書斎にいるだろうと向かっていると寝室の方から小さな悲鳴が聞こえた。
俺は、反射的に走ると扉の前に立ってノックした。
「オリーヴィアお嬢様! ギルベルト様! いかがなさいましたか」
「――――何でもない。下がれ」
一瞬、無音になり弾かれたように小さな足音が走り寄る音がすると扉が開かれた。
髪を乱して蒼白になったオリーヴィアは激しく破かれた寝間着を抑えながら、涙を浮かべて座り込んだ。
小さく小刻み震える様子からしても、ギルベルトが無理矢理オリーヴィアを抱こうとしていた事は理解した。
怯えるオリーヴィアの肩を抱くと、背後から髪をかき上げながら気怠そうに冷たい視線を向けたギルベルトが現れた。
「戻れ、オリーヴィア。夫を恐れる必要はないだろう? 生涯純潔を誓った修道女でもない、お前は私の妻だ」
ギルベルトがオリーヴィアの手首を乱暴に掴んだ瞬間、彼女は恐怖のあまり嘔吐してしまった。俺はハンカチでそれを受け止めると、ギルベルトを睨みつけた。
「――――ギルベルト様。オリーヴィア様は体調がすぐれないご様子です。リーデンブルク家の嫡男をお産みになる大切な奥様を大事にされませんと……いずれ、シュタウフェンベルク伯爵様にもお耳にも届くでしょう」
ギルベルトは俺を見下ろしながら、舌打ちした。リーデンブルク家の義務、妻が自分を受け入れない苛立ちと、これまでどんな女も俺を受け入れ、拒まれた事が無いと言うこの男のプライドが見え隠れする。
そして、獣人である俺へ向けられた侮蔑の眼差し。
驚くほど俺は、オリーヴィアを犯そうとしたこの男に言いしれぬ憎しみの感情を抱いていた。
「――――介抱してやれ。別棟にでも連れていくといい」
冷たく突き放すように捨て台詞を吐いて扉が閉まると、俺は彼女の震えが止まるまで抱きしめてやった。オリーヴィアは涙を流しながら、ようやく絞り出すように言葉を発した。
「ごめんなさい、アルノー」
「――――いいえ。外の空気に触れましょう。今日は来客もありませんから、別棟でゆっくり休まれて下さい」
俺は腰の抜けたオリーヴィアの華奢な体を抱きあげた。ふと、窓に映った外の風景を眺める。
外にぼんやりと浮かぶのは寄り添うように立つ、無表情な雄々しき滅びのヘイミル王と気高き獣の王妃。
ときおり現れる彼らは俺の頭の中で作り出された幻影か、それとも亡き父と母の亡霊なのか。
オリーヴィアとの優しく穏やかな日々が、復讐の誓いを遠い日のように思わせてしまう。
――――あの惨劇を忘れたのか。
――――あの屈辱を忘れたのか。
――――お前が生かされている理由は復讐だ。
声なき声が俺を責めたてているように感じた。