甘やかし婚   ~失恋当日、極上御曹司に求愛されました~
「倉戸さん、不躾で申し訳ないけれどどうしてこの部屋に? 保くんの恋人なの?」


「――沙也は俺の妻だ」


郁さんの静かな声が室内に響く。

ふいに訪れた沈黙を破ったのは飯野さんだった。


「嫌だ、なんの冗談? 郁ったら、笑えないわよ」


「嘘じゃない。飯野、来店理由はわかったがなんで店内を我が物顔で勝手にうろついてる?」


郁さんの言葉を本気で取り合っていない飯野さんにため息を吐きつつ、風間さんが尋ねる。


「保くんに郁の相談をしたくて探していたの。そうしたら郁と会ったのよ」


悪いと微塵も思っていなさそうな飯野さんに、風間さんが渋面を浮かべる。

以前もそうだったが、彼を当たり前のように“郁”と呼び捨てにする姿に胸が軋んだ。

恋愛経験豊富な彼の周囲に女性が多いのは承知していた。

でもその光景を目の当たりにして、心の奥が鋭利な刃物で切りつけられたように痛む。


「歩佳、もう一度言うが俺は沙也と結婚した。近々正式に発表するつもりだ」


「え……」


呆けたように彼を見つめ返す飯野さんを尻目に、郁さんは私の手を取り立ち上がらせた。

いつものように右手を私の左手に絡ませ、飯野さんに向き合う。

飯野さんの下の名前を自然に呼んだ郁さんの姿をぼんやり見つめる。

……私が思う以上にふたりは親密なのかもしれない。

突きつけられた現実に心が悲鳴を上げる。


「沙也、ひとりにして悪かった」


長いまつ毛に縁どられた目が申し訳なさげに私を見つめる。

小さく首を横に振ると、空いているほうの手の甲でそっと頬を撫でられた。
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