甘やかし婚   ~失恋当日、極上御曹司に求愛されました~
マンションに着き、タクシーを降りた郁さんは、絡まった指をほどかず無言でエントランスを抜けていく。

出て行ったときとは違う緊張感で鼓動が速いリズムを刻む。


「あの、郁さん……お義兄さんは……?」


「一緒に沙也を捜してくれていたが、保から連絡がきた時点で宿泊先のホテルに戻った」


「ごめんなさい、せっかく来て下さったのに。私のせいで……」


「いや、気にしなくていい」


やってきたエレベーターに乗り込みながら彼が抑揚のない声でつぶやき、また黙り込む。

いつも以上に感情の読み取れない表情と声に途方に暮れる。


私の行動に呆れた?


情けないと思っている?


自分が蒔いた種だけど、愛想をつかされたらどうしよう。


胸に巣くう不安に支配されそうになったとき、エレベーターが軽快な音をたて、扉が開く。

郁さんはなにも言わず、玄関ドアを開けて室内に入るよう私を促す。

施錠をして、自身も靴を脱ぎ、再び私の手を引いて、リビングに向かう。

ソファの真ん中に私を座らせ、彼は私の右隣に腰かけた。

刺さるような視線に空気が張り詰めていく。


「あの、郁さん……」


決死の覚悟で口を開き、彼を見つめた途端、郁さんの広い胸に突如抱き込まれた。


「――無事でよかった」


数分前に聞いた台詞をもう一度口にした。

体の状態を確かめるように私の髪や首筋、背中を大きな手が撫でる。

ひとしきり触れた後、ぎゅっと力をこめて抱きしめる。
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