今日から君の専属マネージャー


「とりあえず、ボタン直せ」

「あ、う、うん……」


外した第二ボタンを留めている間、涼ちゃんは私に背中を向けて再びゴロンとソファに寝転がった。

涼ちゃんに言われて、シャツの第二ボタンを留めようと下に目を向けると、自分の胸元が思いのほかあらわになっていることに驚いた。

そして今さらながら恥ずかしさを感じ、慌ててボタンを留めなおした。

留め終わってもなお、涼ちゃんは私に背中を向けたままだった。

だからその背中に向かって話しかけた。


「涼ちゃん、今日は、ごめんね」

「なんで美鈴が謝るの?」

「涼ちゃんが熱出したの、私のせいだもん。昨日雨の中、家まで負ぶってくれて。

 それなのに私、今日涼ちゃんが体調悪いのに無理して仕事してることにも気づけなくて。

 マネージャー失格だよ」


そう話すうちに、鼻の奥の方に水たまりができる。

息を吸うと、ずずっと情けない音がする。

それに気づくと、今度は目元に水たまりができる。

涼ちゃんの背中がかすんで見える。

そんなかすみ目でも、涼ちゃんがかすかに動いたのがわかった。


「別に、美鈴のせいじゃないよ。体調管理も仕事のうちだし。

 仕事に行こうって決めたのは、俺だから、それに……」


涼ちゃんの言葉がそこで止まった。


「それに、心配だったのは本当だけど、本音は、俺が美鈴と一緒にいたかったからだよ。

 だから、どさくさに紛れて、電車にも、乗った」


「……え?」

「ほら、ずっと一緒にいたからさ。朝も夜も、仕事でも家でも。

 だから、美鈴がいないとなんか、調子狂うっていうか……

 美鈴がそばにいない夜が、嫌だっただけ」


涼ちゃんはぼそぼそとした声で早口で言った。

私はそれを、ぽかんと口を開けて聞いていた。

私が何も言わないでいると、不審そうな様子で涼ちゃんはこちらに顔を向けた。


「美鈴……聞いてた?」

「涼ちゃん。涼ちゃんってもしかして……」


私が涼ちゃんの目をじっと見つめると、そんな私の目から逃げるように、涼ちゃんは目をそらして、ぼそぼそと話し始めた。


「そうだよ。さっき楓も言いかけたけど、俺は……」

「寂しがり屋なんだね」






「…………え?」






と涼ちゃんは私の目を見て、目をぱちぱちと何度か瞬きさせる。

そしてしばらくそのまま固まったのち、また勢いよくソファにごろんと寝ころんだ。

顔を長い腕で覆い隠して、口元だけを動かす。


「うん、そうかも。そういうことにしといて」

「え? そういうこと、なんでしょ?」

「そうだな。誰かと一緒にいて、癒されたかったんだよ」


その言葉に、私は急に自分の悩みを思い出す。

こういうのは、本人に聞いてしまった方が早い。


「ねえ、涼ちゃんの癒しって、何?」

「うーん……肌の触れ合い?」

「うっ、や、やっぱり、そうなんですね?」

「ははっ、うそうそ」


軽く笑いながら、涼ちゃんはようやく柔らかな笑みを見せた。

その笑顔を、久しぶりに見たような気がした。


「じゃあ……ほめて」

「え?」

「それが、俺の癒し。それに、それがマネージャーの仕事だろ?」


涼ちゃんの上目遣いが私の心臓をぎゅっと鷲掴みにする。

その目に吸い込まれるように、柔らかな黒髪に手を伸ばした。

そっと触れると、髪が指先を弄ぶように絡まってくる。

そっと撫でれば、指先が震えだす。


「よく、できました」


言いながら、そっと、そっと、頭をなでる。

私がなでる姿を、涼ちゃんはずっと目を細めて見守っていた。


「あの……あんまり見られると、照れます」

「そう? じゃあ、交代」

「え?」


そう言った瞬間、涼ちゃんはがばっと起き上がり、私の頭にそっと触れた。

そうかと思ったら、力強い手が私の頭を涼ちゃんの胸元に引き寄せた。

頭には心地よい重みと、手のひらから伝わる熱。

そこに加わる、涼ちゃんの匂い。

薄い生地のパジャマを通して感じるごつごつとした骨格。

心臓はどくどくと早鐘を打っていて、涼ちゃんの胸の中で私は荒くなる息を必死にこらえた。

それなのに、頭をすっと撫でられると、体がふわふわと宙に浮きそうになるくらい心地よかった。


「美鈴も、よくできました」


その言葉で、私は涼ちゃんの胸元から顔を出した。

目が合うと、涼ちゃんは穏やかな笑みを私に向けていた。

その言葉と、匂いと、体温と、笑顔に、体が震える。

今日抱えたすべての不安や緊張が、すうっと安心感に変わって、涙となって湧き出す。


「かわいかったよ」

「え?」

「まあ俺が相手だったら、もっとかわいく撮れてたと思うけどな」


そう言って、涼ちゃんはにっと意地悪そうな笑みを見せた。

まだ熱があるのか、顔が赤い。

そんな涼ちゃんの表情に、私はくすくすっと笑った。


「ほら、そっちの方がいいよ」

「え?」

「美鈴は笑ってないと。笑ってる方が似合うんだから。

 だから、もう泣くな。必要以上に、謝るな」


涼ちゃんはそういうと、意地悪だった顔を、また穏やかな顔に戻していく。

顔が、まだ赤い。

苦しそうだ。それなのに、そんな言葉をかけてくれる涼ちゃんの優しさに、やっぱり涙があふれる。

「だって涼ちゃん、昨日からずっと機嫌悪いんだもん。怖かったんだもん。

 嫌われちゃったのかなって。もう涼ちゃんと一緒にいない方がいいのかなって」


「そんなわけないじゃん」

「じゃあ、何で怒ってたの? なんで他人行儀なの?

 座るときだって、いつも私の隣に来るのに、昨日はあえて私の反対側に座ったじゃん。あれは何だったの?

 いつも意地悪くからかってくるくせに、それも昨日はなかったじゃん。

 髪だっていつも乾かしてくれるのに、昨日はやってくれなかったじゃん」


「なに? 意地悪してほしいの?」

「そ、そういう意味じゃなくて……」


そう反論しようとしたとき、「だからさあ……」と涼ちゃんは、語調を強めて私の言葉を遮った。


「だから……、あんまり近づくと、抑えられないから」

「え?」

「だからつまり……俺も、好きだから」


涼ちゃんは私の目を、熱のある瞳でとらえながらはっきりと言った。

その言葉を頭の中で何度も何度も繰り返して、その意味に、たどり着く。


「だから……」

「うん、わかった。もう、大丈夫。それ以上言わなくて……」

「え? いいの?」

「う、うん」


いくら何でも、今をときめく超人気モデルの涼ちゃんに、そんなはしたないというか、破廉恥なことを言わせるわけにはいかない。

っていうか、涼ちゃんの口からそんな言葉聞きたくない。

マネージャーとして、絶対言わせてはいけない。


「涼ちゃんも、男の子だったということね」

「……は?」

「大丈夫、涼ちゃんの名誉にかけて、このことは表沙汰にしないから。

 そうだよね、涼ちゃんも男の子だから、そういうこと考えるし、そういうこと、……好きに決まってるよね。あははー」


思わず声が上ずった。

口調もカチコチ。

変な汗まで出てくる。


「いや、なんかいろいろ勘違いしてんだけど」


そんな涼ちゃんの言葉も気にせず、私はブラウスのボタンを一番上まで留めた。


「まあ、いいんだけど。それもほんとだし」


涼ちゃんは腕で顔を覆いながら、力なく「ははは」と笑って再びソファにごろんと横たわった。


「しかもあの時の美鈴、服濡れて、いろいろ透けてたし。男心くすぐるよな」


あの日の自分を思い出して、顔が一気にかあっと赤くなる。


__私、そんなみだらな格好してた?

  そんなに涼ちゃんの本能を揺さぶるような格好だったってこと?


「美鈴は警戒心なさすぎなんだよ」

「あはは、ごめんねー、警戒心もゼロで」


涼ちゃんと距離をとりながら、無意識に涼ちゃんにかけられたタオルケットを自分に巻き付けていた。


「急に警戒心むき出しになったな」


涼ちゃんは目を細めて私をにらむ。


「でもよかったな、今日は。俺が熱出して思うように動けなくて」


そう言って涼ちゃんは、私に背中を向けた。


「だから、安心して、ここにいろ」


くぐもった声に、なぜか気持ちがほぐれていく。

それと同時に、なんだか申し訳ない気持ちになった。

いくら昨日涼ちゃんの心の中によこしまな気持ちがあったとしても、涼ちゃんはそれを抑えててくれたんだ。


__「俺、絶対何もしないから」


そう言った時の、涼ちゃんの力強い声が思い出された。

それなのに私は、油断した。

涼ちゃんなら大丈夫って。

涼ちゃんは何もしないって。

そんな目で見てないって。

そんな変な自信があった。

吉田さんじゃあるまいしって。

だけどあれは全部、涼ちゃんの優しさと、自制心という、自己管理能力のたまものだったんだ。

それなのに、私はそんな涼ちゃんの気持ちを全然考えてなかった。

それどころか相手が涼ちゃんなら……なんて勝手に変な妄想や期待をしてた。

さらには涼ちゃんが怒っていると勘違いして、勝手に泣いて、勝手に落ち込んで。

そして今、一瞬でも涼ちゃんを警戒したことを恥じた。


__私、何やってるんだろう。涼ちゃんはこんなに、優しいのに。


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