今日から君の専属マネージャー
「私は、だめだよ。モデルでも何でもないし。ただの、一般人だから」
その言葉をのど元から押し出すのに、かなりの力を振り絞った。
それでようやく、小さな声がかすかに出たくらいだった。
私の返事を聞いた楓君は、椅子の背もたれに体をとんと預けて、「ふう」と聞こえるように息を吐く。
「やっぱダメか」
「ごめん」
「いや、こちらこそごめんね。そうだよね。こういうのってさ、覚悟がいるもんね」
そう言いながら、楓君は私の目の前にあった資料をさっと閉じた。
「同じ人間なのに、一般人と芸能人って、どうしてこうも違うんだろうね。
芸能人はいつだって表にさらされる。
恋だってまともにできないし、生活だって見張られてる。
まあそういう世界で生きることを選んだのは俺たちだし、わかってて飛び込んだからね。
涼也も」
その名前に、思わず視線を上げた。
そこで、今まで見たことのない、楓君の厳しいまなざしと出会った。
「放っておけばそのうち収まるのにさ、あいつ、今一生懸命頭下げてるんだよ。
君を守るために」
「え?」
「君は良いよね、自分は一般人だから、顔は出せないとか、何もできないとか。
そう言って逃げられるもんね。
でも涼也は、違うんだよ。涼也は今、戦ってるんだよ。
世間の目と戦ってるんだよ。世間の注目を一身に受けて。
それもただ戦ってるんじゃない。君を守ろうとしてるんだよ。
君が他の人の目にさらされないように、君のささやかな日常を守るために。
おかしいと思わなかった?
涼也の熱愛相手なんて、大人の力で探せばすぐに君だと突き止められるんだよ。
この家だってわかる。学校だってわかる。
だけど、君のところには何の変化もない。
そりゃそうだよね、君は、涼也に守られているんだから。
涼也が自ら盾になって、君を必死で守ろうとしてる。どうしてか、わかる?
君が、そこらへんにいる一般人だからじゃないよ」
「楓君、もうその辺にしてくれ。これ以上荒波を立てないでほしい」
勝手口の方から聞こえた吉田さんの声に、楓君の表情が曇る。
「そうだね。こんな事掘り返したって、仕方ないもんね。正直めんどくさいし。
他人の色恋沙汰に口出しするなんて、俺の趣味じゃないし」
いらだちを隠しきれない声とともに、楓君が立ち上がる。
「ごめんね、美鈴ちゃん。お邪魔しました」
そう言って、楓君は勝手口に向かう。
「ああ、そうだ。その見本、美鈴ちゃんにあげるよ。
初モデル仕事の記念にどうぞ」
その冷たい口調に、胸が痛む。
楓君と吉田さんがぼそぼそと言いあう声が勝手口の方から聞こえる。
二人を見送ろうと私も立ち上がり、狭い勝手口で押し合いへし合いしながらもめる二人の背中を見守った。
その先にある扉に、自然と目が行く。
__「ただいま」
涼ちゃんが、今にもそこから顔を出しそうな気がした。
しばらくして、楓君が吉田さんの体を支えながら出ていこうとする。
「じゃあ、本当にお邪魔しました」
そして狭い勝手口を、二人同時に抜けようとして詰まり、またにらみ合って、順番に出ていく。
そしてようやく、ぱたりと勝手口の戸が閉まった。
賑やかだったキッチンに、急に静けさが戻る。
カチ、カチ、カチと時計の音が妙に大きく聞こえる。
時間はどんどん過ぎていく。
__このままでいいの?
このままの私で、いいの?
このまま終わりにして、いいの?
頭の中で、私が私に問いかける。
その問いかけに答える代わりに、私は裸足のまま勝手口の土間におり、勢いよく扉を開いた。
小さな砂利が敷き詰められた裏道を走って玄関の方に出ると、平屋には似つかわしくない高級車に二人が乗り込むところだった。
「あのっ……」
真夏の空を、私の声が高らかと貫いていく。
その声に、二人が振り返る。
次の一言のために準備した声。
その声を発する前に、胸が震えた。