今日から君の専属マネージャー
「うわわわわわわっ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい。だ、大丈夫ですか?」
私の下にいたのは、どう見ても人間だった。
うつぶせに倒れたその人は、ピクリとも動かない。
恐らく男性だ。
周りにはその人のものらしき紙袋が二つと、そこから飛び出たと思われる荷物が散乱している。
「ほんとごめんなさい。ぼーっとして足を踏み外して」
何を言っても、男の人は何も答えない。
うつぶせのまま倒れている。
「ちょっと、大丈夫ですか? 起きられます? 救急車呼びましょうか」
そこまで言ってようやく、ぴくぴくっと体が動く。
ようやく上がった顔をのぞき込むと、もさもさと伸び放題の髪の間を縫って血が垂れてきており、頬のあたりにも擦り傷ができて血が滲んでいる。
明らかに顔色は悪そうで、細くて頼りない体を、その細い腕で何とか起こそうとしている。
年齢は、もはや不詳だ。
私はその痛々しい姿に思わず目をしかめた。
彼は目を細めて、手をしきりに動かして、何かを探す仕草をする。
こういう時って、大体……
「め、メガネ、メガネ……」
やっぱり。
私は辺りを見渡して一緒に眼鏡を探す。
私たちから少し離れたところに、それらしきものを見つけた。
手に取ると、レンズの端の方にひびが入り、耳にかける部分もぽきりと折れている。
無残な姿の眼鏡を、私はそっと、彼の顔の上に載せてあげた。
「どうも、すみません」
こちらが謝らないといけないのに、彼はかすれてぼんやりした声でそう言った。
そして自分の手で眼鏡をかけなおし、
「ありがとうございます、お怪我はありませんか」
と丁寧に言って、私のほうを見た。
その瞬間、さっきまでどこにあるかすらわからなかった瞳が、ギラギラと輝き始めた。
そしてズレるメガネを顔に押し付けながら、私の方をまじまじと見てくる。
__な、なに?
その気迫に押されながら、じりじりと後ずさって相手と距離を取る。
「きみ、可愛いね」
「……はい?」
__な、何なの、この人。
口が叫びたがっている。
あわあわと口元の筋肉が痙攣しているのだけはわかる。
「あれ? もしかしてノーメイク? すごい透明感。肌もすごくきれい。スタイルも申し分ないし。
君、どこかの事務所の子?」
私のことをじろじろ見ながら、男の人は早口で言った。
恐怖で動けないでいる私にようやく気付いたのか、男の人はいったん私から距離を取った。
「ああ、ごめんね。怪しい者ではないんだ。
僕こういう者で……あれ? 名刺、名刺……」
服につけられたあらゆるポケットをポンポンたたき、「あった、あった」と声を弾ませた。
その名刺を丁寧なお辞儀と共に渡される。
私は差し出された名刺を、親指と人差し指でつまむように受け取った。
「吉田、さん?」
そしてその隣の肩書のようなものを見て、私は思わず顔をしかめた。
「芸能事務所の、マネージャー?」
__胡散臭い。怪しすぎる。
「ねえ、君うちの事務所にどう? よかったら連絡先教えてくれない?」
__こ、これって……絶対いかがわしいお仕事の勧誘でしょう?
心の中で絶叫した後、私は逃げるタイミングを見計らい始めた。
「あ、あの、私……」と言いながら立ち上がる準備を始めると、「いてててててて……」と悲痛な声がした。
吉田さんは足を押えている。
どうやら立てないようだ。
__いまだ。逃げるなら今しかない。チャンスだ。
そう思ったけど、思い直した。
吉田さんの怪我は、私のせいだ。
足を押えてその場で動けないでいる姿を不憫に思った。
そんな人を、放っておくわけにはいかない気がした。
だけどどうしたら……。
その時、私の目の前に、すっと影が落ちた。
私の目に映ったのは、大きなリュックを背負った背中。
「吉田さん、大丈夫? うわっ、血出てるじゃん。立てるの? 救急車呼ぶ?」
「こんなところで救急車呼んだら、大騒ぎになるだろ。僕は大丈夫だから。
それより、彼女……」
振り向くその人は、黒のキャップを目深にかぶっていた。
帽子のつばで目元は隠れているのに、さらにその瞳を隠す黒いサングラス。
そして大きめのマスク。
顔はあらゆる物たちに覆われてまったく見えない。
肌の色さえも。
__で、出たっ。絶対怪しい人。
「えっと、大丈夫?」
「は、はい。私は、大丈夫なんで」
恐怖で声がひっくり返った。
振り絞った声も途切れ途切れにしか出てこない。
だけど私は次に自分がすべき行動をわかっていた。
__とにかく、逃げる。
鞄を目の端でとらえた。
鞄をつかんだら一気に走る。
そう自分に強く言い聞かせて、気づかれないように大きく深呼吸した。
そして鞄に手を伸ばそうとしたとき、鞄が目の前からふっと消える。
__え?
代わりに現れたのは、すっと差し伸べられた手だった。
長い指先からは、なんだかいい匂いがした。
すらりと伸びた指先からごつごつとした手、そして肩までスマートに伸びる腕を辿って、ゆっくり視線を上にあげると、真っ黒なサングラスに、きょとんとした私の情けない姿が映っていた。
「立てる?」
「え?」
「手」
「あ、はい」
差し伸べられた手に、私は素直につかまった。
そして、すっと立ち上がった。
どうしてだろう、さっきまで怪しい人と思っていたのに、危険な匂いしかしなかったのに。
その長い指先からは、優しい温かな空気が漂っている気がした。
「一緒に病院行こ」
「あの、私は大丈夫です」
「じゃあ、荷物持ってくれる? 俺、吉田さん背負ってくから」
「え? あ、はい」
言われるがまま、私は散らばった荷物を拾い集め、吉田さんが持っていたと思われる二つの紙袋にばらばらと詰め込んだ。
荷物ははみ出て、紙袋の格好はいささか不格好だった。
そんな紙袋は重くて持ちにくい。
慌てて入れたのもあって、紙袋からはバラバラと詰め込んだものがあふれてくる。
入れたそばからあふれ出て、いつまでたっても収まらない。
一体どうやって詰め込まれていたんだろう。
「はあ」
頭上から呆れ交じりのため息が降ってきた。
吉田さんはいったん背中から下ろされ、変装男が私の方に近づいてくる。
そして黙って私が詰め込んだ荷物を全部出して、もう一度手際よく袋に詰めていく。
そして、あっという間に散乱した荷物は片づき、紙袋からはみ出ることなく、すっきりとした形の紙袋が私の両手に収まった。
私は吉田さんの手荷物らしき紙袋二袋、自分の学校鞄、そして、吉田さんを背負う彼の大きめのリュックを背負う。
もたもたと準備している間に、彼はすたすたと私を置いて歩いていく。私はその背中を、慌てて追いかけた。