青に染まる
汀相楽、三十五歳。独身。
自分が独り身であることを不思議に思ったことはないし、悲しく思ったこともない。
だとしたら何故、「愛」という言葉に胸が痛んだのか。もっと言うなら「正しく愛を伝えられるように」という言葉に、痛みを感じたのか。
「わからないや……」
やはり、僕の過去には何かあるのだろうか。僕が忘れてしまったのは、辛いことがあったからだろうか。いっちょまえに恋でもして、破れたのだろうか。
ちょっと鼻で笑ってしまった。恋が破れたくらいで忘れるとは、軟弱な精神だ。
「何がわからないんですか?」
「わおっ」
唐突に第三者の声がしたため、奇声を上げてしまった。お客様だ。来ていたのか。そして独り言を聞かれたのか。恥ずかしい。
「ただの独り言ですよ。いらっしゃいませ。どのような花をお求めですか?」
切り替えて僕は笑顔で応対した。
「今日は、ビオラを」
今日はということは、この人はいつも来てくれている人なのか。
「すみませんね、名前覚えてなくて。毎日伺っていますが、お名前を教えていただけますか?」
そう訊くと、僕より短い髪をしたその男の人はくしゃりと顔を歪める。
こう毎日やりとりをする僕の記憶力を憐れんでいるのだろうか。それとも、覚えてもらえていないのは、辛いのだろうか。
「申し訳ありません」
込み上げてきた気持ちをそのまま口に出すと、その人は何かをぼそぼそと呟いた。聞き取れなくて首を傾げると、今度ははっきり告げた。
「汀哀音です」
「汀……僕と同じ苗字ですね」
こう言って笑うと、哀音さんは更に顔を歪めた。何だか、悲しそうだ。
けれど、その悲しみの理由が僕にはわからない。汀ってよくある苗字でもないけれど、全然ないわけではないのだなぁと密かに思う。
自分が独り身であることを不思議に思ったことはないし、悲しく思ったこともない。
だとしたら何故、「愛」という言葉に胸が痛んだのか。もっと言うなら「正しく愛を伝えられるように」という言葉に、痛みを感じたのか。
「わからないや……」
やはり、僕の過去には何かあるのだろうか。僕が忘れてしまったのは、辛いことがあったからだろうか。いっちょまえに恋でもして、破れたのだろうか。
ちょっと鼻で笑ってしまった。恋が破れたくらいで忘れるとは、軟弱な精神だ。
「何がわからないんですか?」
「わおっ」
唐突に第三者の声がしたため、奇声を上げてしまった。お客様だ。来ていたのか。そして独り言を聞かれたのか。恥ずかしい。
「ただの独り言ですよ。いらっしゃいませ。どのような花をお求めですか?」
切り替えて僕は笑顔で応対した。
「今日は、ビオラを」
今日はということは、この人はいつも来てくれている人なのか。
「すみませんね、名前覚えてなくて。毎日伺っていますが、お名前を教えていただけますか?」
そう訊くと、僕より短い髪をしたその男の人はくしゃりと顔を歪める。
こう毎日やりとりをする僕の記憶力を憐れんでいるのだろうか。それとも、覚えてもらえていないのは、辛いのだろうか。
「申し訳ありません」
込み上げてきた気持ちをそのまま口に出すと、その人は何かをぼそぼそと呟いた。聞き取れなくて首を傾げると、今度ははっきり告げた。
「汀哀音です」
「汀……僕と同じ苗字ですね」
こう言って笑うと、哀音さんは更に顔を歪めた。何だか、悲しそうだ。
けれど、その悲しみの理由が僕にはわからない。汀ってよくある苗字でもないけれど、全然ないわけではないのだなぁと密かに思う。