青に染まる
 そいつはふるふると力なく、首を横に振った。

「俺が今日この店に来たのは本当に偶然です。まさか、会えると思っていなかった……けれど彼は何も覚えていなかった」
「それはそうだろうさ!お前が兄貴を殺しかけた後、兄貴がどれだけ苦しんだか、お前は知らないだろう!?苦しんで苦しんで苦しんだ末に……兄貴は全部、忘れたんだよ……!」

 悔しくて仕方ない。今目の前にいる男を殴り飛ばしてやりたいのに、兄貴が大切にしている花の前だからそれができなかった。

「忘れた、ですか……なら、そのままの方がよかったんですかね」
「どういう意味だ?」

 そいつの口にした言葉に引っ掛かりを覚える。まさか。

「相楽は、俺の名前を呼びました。はっきり、幸葵くんと」
「そんな……まさか……」

 おれは愕然として、そいつの襟首を掴まえていた手を放した。

 思い出した? あれだけ苦しんで忘れたがっていた兄貴が、思い出した? こんなにもあっさりと? 引き金はよりにもよって、こいつ? 到底認められる現実ではない。

「嘘だ……十七年かかって、おれのことも思い出せなかったのに」
「でも、本当なんです」
「お前、兄貴に一体何したんだよ」

 おれが疑り深く訊くと、そいつは俯いた。まさかとは思うが。

「そんなに疚しいことでもしたのか?」

 案の定顔を背けるそいつに、おれの(たが)は飛んだ。すぱぁん、と拳を振り抜く。平手なんて柔なことはしない。おれは怒りに任せてそいつを殴りつける。

 苛々した。そいつはこれも罰だと、受け入れるような顔をしていたからだ。

「今も昔も! いつだって兄貴を苦しめるのはお前だ!!」

 怒りに任せた殴打音が、不規則に店の空気を揺らした。客がいなかったのは、幸いだったかもしれない。どうせ客がいたところで、おれは行動を変えようとはしなかっただろうが。それが数分続いた。

 そいつの両頬は腫れ上がり、口の中を切ったのか唇の端から血を流していた。

 おれの心がそれしきで収まるわけもなく手を振り上げたところで、「やめてください」と澄んだ声がした。

 毎日聞いている馴染みの声。
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