若社長は面倒くさがりやの彼女に恋をする
「いえ、大丈夫ですよ。お気になさらず」

 そう言いながら、先週、響子さんと出会った日のことを思い出す。出会い頭にぶつかって、響子さんの薄い口紅が僕のスーツに付いてしまった。
 あの時は気持ち悪いどころか、ご褒美もらったくらいに思ったのに。今は、気にするなと言いつつ、正直、気持ち悪くて仕方ない。

「そんな訳にはいきませんわ。クリーニングに出してお返しするので……」

「いえ、結構です」

 反射的に口に出していた。結構強い口調で。
 一瞬、呆気に取られた顔をする女に、仕方なく微笑を見せる。

「まだ夜は冷えますから。これくらいなら、うちのものが綺麗に落としますので」

「でも……」

「さあ、行きましょう。タクシーももう来ていると思いますし」

 いい加減にしてくれ。月曜日の夜から、こんな仕事、嫌がらせか?

「ゆかり、牧村さんが良いと言っているのだから。もし気になるのなら、今度埋め合わせをさせていただきなさい」

 しつこく食い下がってくる女に、服部社長が援護射撃をする。

「そうですね、それも良いかもしれない」

 ちょっと本部長! あなた、服部社長から何かバックマージンでももらってるんですか!?

「いえ、本当にお気になさらず」

 むしろ、全力で遠慮したい。
 だけど、移動を始めた僕の後にピッタリと付き従いながら、女は言った。

「伯父様、狭山さん、とても良いお考えだわ」

 服部社長とうちの本部長に笑顔を振りまきながら、女は楽しげに笑った。

「……すみません。本当に結構です」

 もうダメだ。これは無理だ。
 玄関口で二人をタクシーに案内し、困ったような表情を作りながら言った。

「将来を誓った彼女に申し訳ないので、もうこのようなことはやめて頂きたい」

 少々キツめの声音になったのは許して欲しい。ここまでよく我慢した、自分。
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