高嶺の社長と恋の真似事―甘い一夜だけでは満たされない―
あれ、なんだ。別に怖くたって、怖いままだっていいのか、とストンと腑に落ちたとき、マンション前に立つ人影に気付いて顔を上げる。
ぐらつく視界でとらえたのは、スーツ姿の緑川さんで、幻覚かと思いしばらく立ちすくんでしまった。
私の住むマンション前にどうして彼がいるのも、そもそもなんで住所を知っているのかもなにひとつわからない。
私に気付いた緑川さんは「ずいぶんと仕事が忙しいようで」と真顔で言う。
刺々しく聞こえ嫌味にも思えたけれど、応戦できる気力はない。
答えはしないで視線だけキョロキョロと動かしていると、察しのいい緑川さんがひとつ息をつく。
「社長は一緒じゃありません。今日は佐々岡さんと食事予定です」
「あー……そうでしたね」
忘れていた。
うっかり、というよりは、今、私の頭からは割と大部分が抜け落ちている状態なので仕方ない。
それでも、〝やっぱり会っているのか〟とダメ押しで知ってしまい、弱っている体にかかる重力が増す。
「あの、それで緑川さんは私になにか用でしょうか」
「貴方じゃあるまいし用事がなければわざわざ来ません」
じろりとした視線を向けられ、肩がすくむ。
まるでホテルの部屋で初めて会ったときのような眼差しだった。