春が訪れ、いつしか愛になりますように
第一章:青色ロスタイム
 恋する乙女の賞味期限は、どうやら短く儚いものらしい。
 社会人になって五度目の秋。
 私、山下晴(やましたはる)はそれをいっそう強く感じる年となった。
 職場のお昼休みの今、女性の場ならではの会話が目の前で繰り広げられている。
 夫の収入が全然上がらないとか、さっさと結婚したいのに彼氏が渋っていてイライラするとか、この前会った男は大外れだったとか。
 そんなふうに無限に不満が出るのに、結婚生活や恋愛をやめようとしないのだから、不思議だなって私は思う。
 社内での恋愛の話題といえば、営業部の東(ひがし)さん。
 たしか、私より少し年上。親切でかっこよくて、営業成績もよくて優良物件なのだとか。彼氏や夫はどうした、と思うけど、まあ、そういうことではないんだろう。ここら辺は女子なんだなと、少し面白くはあった。
 私は、この輪にいて愛想笑いを浮かべているだけ。
 ついていけない、というのが本音だった。
 それでも高校以来の友達と、その職場の友達がいるこの場から逃げるわけにはいかない。
 なぜなら、私はこの会社に事務として入社して、まだ一年も経っていないから。
 仕事を教えてもらったりサポートしてもらったりするには、ある程度の良好な関係も必要不可欠。
 それに、この職場を紹介してくれたのがその友達だった。そのまま面接等々をすると、前の仕事が珍しく面白がられたのか、案外あっけなく採用が決まった。
 言ってしまえば、無職だった私にとっては恩人のような存在で、それをあだで返すような真似はできない。正直、きついなと感じずにはいられないけど。
 昔は、こういう子じゃなかった。
 かっこいい運動部の男の子に恋をして、窓からその姿を眺めているような、澄み渡る青空みたいに純粋な、恋する乙女だった。
 いつから彼氏が結婚してくれないと不満や愚痴を言うようになったのか、数年ぶりに再会した私には知るよしもない。あの頃のかわいらしかった彼女に会いたいと思うほど、今の彼女はどこかたくましく、より遠い存在になってしまった。
 とかいう私も、実は恋愛にはもう懲りごりしていた。
 それは、昨年の秋。
 七年付き合っていた彼氏に浮気をされ。
 しかも、その女性と結婚されてしまったからだった。


「山ちゃんは今、良い人いないの?」
 終業を目前にして、会社を紹介してくれた友達、スズに何気なく聞かれる。
 山ちゃん、というのは、高校時代の私のあだ名だった。
 小学校の頃も山ちゃんで、中学校はヤマ。それが巡り戻って、山ちゃん、というあだ名が三周目を迎えていた。どうも、山、という名字が扱いやすいらしい。
 覚えている限りでは家族と、金輪際会うことのない元カレを除いて、私を下の名前で呼ぶ人は二人しか知らない。
 ……その一人とは、もう会えるとは思えないけど。
 私は彼女を横目に「うーん」と唸る。
 これは年に数回、定期的に聞かれることだった。
 いつも通り適当に受け流せば良いところなのかもしれないけど、今回の私は悩んでしまった。
 このままでは、永遠に聞かれ続けるのではないか。
 実のところ、この質問を少し鬱陶しく感じてしまっている。でも、やめてもらうように仕向ける方法を考えていないわけではない。
 ただ、私自身が他人に話すことを躊躇っているだけ。
 あまり、話題にされたくもないし。
 けどこのままずっと変わらないのなら、いっそのこと話してしまったほうが楽なのかもしれない。
 そう思い、彼女の方を向く。
「実は名古屋にいる時、遠恋してる彼氏に浮気されたんだよね」
「え、そうだったの!」
 目を見開き声を荒らげるものだから、私はとっさに彼女の口を塞ぎ、声が大きいと注意する。少し落ち着いてきた頃、私は再び口を開く。
「しかも七年付き合ってた彼氏に」
「それは、災難だったね……」
「だから恋愛はもう……ね?」
 苦笑いで言うと、スズは視線を落とし、しゅんとした表情になる。
 もしかして、中々結婚を切り出してくれない彼氏とこの話を重ねてしまったのだろうか。だとしたら、悪いことをしたな。そう思い、彼女の顔をそっと覗き込む。
「きっと、もっと良い男がいるよ」
 ぎゅっと、私の手は包み込まれる。私を見る眼差しはとても真っ直ぐで、優柔不断な彼氏の話しをする時の、淀んだ瞳とは歴然の差だった。
「協力するから、何でも言ってね?」
 私は一瞬固まってしまうけど、すぐにどうにか笑みを浮かべる。一応、頷かないでおいた。意味はないと思うけど。
 こんなはずじゃなかった。
 同情してそっとしておいてもらうはずが、違う方向に同情されてしまった。
 でもある意味、スズらしいなとも思った。
 高校時代から、何かと面倒見がいいというか、友達思いな子で。
 そんなところが友達として好きだったことを、十数年ぶりに思い出した。
 色々あったからなのか性格がきつくなっていたけど、こういうところは全く変わっていないらしい。
 依然として真剣な顔をしていて、私はさっきとは違う意味で笑顔になってしまう。
 まあいっか。
 そう、今なら思えた。


 それから小一時間ほど。
 スズから元カレについて質問攻めを受け、ようやっと帰路についたところだった。
 好意でとはいえ、どっと疲れてしまった。明日は休みだし、節約と健康のためにも簡単に自炊しようかと思ったけど、もうそんな気力まで削がれている。スーパーの総菜でも買って、冷凍したご飯をチンしようかな。
 ぼんやりと考えながら、とぼとぼ駅の改札を出ると、夜なのに外が騒がしいことに気づく。太鼓の音や喧騒がひしめき、つい目を細めてしまう。
 奥が見えないほど人で溢れ、水風船すくいやりんご飴など、路上の端々に屋台が立ち並んでいる。
 そういえば、今日は駅前で祭りだったんだ。
 私の地元の駅の祭りは、秋に行われる。
 どうして秋なのかは分からないけど、誕生日とか、たぶん何かしらの理由があるんだろう。
 たしか夕方くらいに踊りや神輿などの余興をして、主に夜は屋台を楽しむ的な感じだったはず。
 名古屋に引っ越す前に来て以来だから、かなり久しぶりの光景だ。
 最後に行ったのは……そうだ、元カレとだった。
 たしか就職先が名古屋に決まって、引っ越す前の年。しばらく来られなくなってしまうからと、私が地元の祭りに行っておきたい、と彼の前で口にした。そしたら、せっかくだし行こうって言ってくれたんだっけ。
 彼は優しい人だったと思う。
 遠距離になるとしてもやりたい仕事を応援してくれたことや、記念の日にはサプライズしてくれたこともあった。
 この祭りだって、私が食べたいものを優先して連れ回してしまったけど、面倒くさがらずについてきてくれた。
 だけどそれは、浮気さえしなければの話。
 あれは私が仕事で行き詰って、気分転換も含め、数か月ぶりに当時の彼氏に会いに行った時のこと。
 疲れていたせいで血迷っていたのか、アポなしで彼の家を訪ねた。
 それがある意味で功を奏し、合鍵で部屋に入ると、すっぽんぽんの彼とその相手の女性の現場に遭遇。結婚まで行く前に、浮気を突き止めることができた。
 正直、裏切られたことにショックは受けた。
 でも不思議なことに、心はそこまで傷つきかなかったと思う。
 遠距離恋愛をして数年経ったころから、彼のことよりも仕事の方が大事になっていた。本音を言ってしまえば、結婚もしたいとは思えなかった。
 ぼんやりと、祭りの風景を眺める。
 友達同士や家族連れ、そして恋人同士。
 記憶として頭に浮かぶのは、彼と過ごした時間。
 だけど、そんなこともあったな、としか思えなかった。
 楽しかったなとか、悲しいなとか、本当に何にも感じさせてくれない。
 今思えば、彼と付き合ったのも、何となくだった気がする。
 それから七年間、当時の彼にときめいたことはあったかな。
 そもそも。
 私は、誰かにときめくことはできるのだろうか。
 お祭りの中へと足を踏み入れてみる。それでもやや俯きながら、なるべく早足で進んでいく。楽しむつもりはあまりなく、りんご飴とチョコバナナだけでも買って帰ろうと思った。
 どこら辺にあるかなと見渡していると、パンっと、破裂するような音に肩を震わせてしまう。興味がなくて気づかなかったけど、真横には射的の屋台があった。中学生くらいの男の子が身を乗り出し、懸命に狙いを定めている。
「がんばって」
 となりの女の子が可愛らしく応援していて、その言葉に若干顔を赤らめつつ表情は引き締まる。
 ああ、そういうことか。
 つい微笑ましくて頬が緩む。でもそれといっしょに、胸の辺りが暗く沈んでいく。私には縁遠いことだなと、ふと考えてしまった。
 でも、羨ましくなんかはない。そう、頭の中で繰り返し言葉にし、左右に首を振る。
 かっこいいとこ見せられるといいね、と密かに武運を祈り通り過ぎようとした。
 けど、おもわず立ち止まってしまう。
 男の子が射的の銃で、ぎゅっと狙いを絞っているもの。
 砂時計。
 渡せなかった、ひび割れた砂時計。
 そこにあるのはただの砂時計のはずなのに、幻のように一瞬だけそう見えた。
 それに気づいた時、どくんと、明らかに胸の音が跳ねるのを感じた。その鼓動が、あの頃、あの人に抱いた胸の高鳴りに似ているような、そんな気がした。
 私にも、たしかにあったんだ。
 ときめいて、恋に落ちていった時が。
 でもそれは十年前、女子高校生だった頃のこと。
 これまでの私の人生。
 恋というものに落ちたのは、その時が最初で最後だった。
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