春が訪れ、いつしか愛になりますように
第四章:一人芝居
 進路調査表。期限は二学期中。
 秋になってすぐに配られたプリントを、頬杖をついて、欠伸しながらぼんやりと眺める。ちらほら提出していると人もでてきていて、今もなお、その話題が一日数回は聞こえてくる。ぶらぶら椅子を傾けて揺らし、天井を見上げる。
 一番安全なのは、きっと大学に進学すること。そこそこのところに行ければ、就活では何かと便利になるし。
 その代わり、当たり前だけど莫大なお金がかかる。比較的安い、国立大学に行けるほどの頭はない。
 一応、僕の母にあたる綾(あや)さんには大学を進められている。理由は、だいたい僕と同じだった。
 そこまでして、僕が大学に行く価値があるのだろうか。
 いっそのこと、就職した方が良い気もしてくる。専門学校という選択肢もあるけど、何か手に職をつけたいと思えるものすら、何もピンと来ていないからなし。
 ちらりと、辺りを見渡す。
 僕は図書室にいるけど、視界に入るのは黙々と勉強している学生ばかり。読書をしているほうが圧倒的に少数だった。ただボケっとしている僕は、群を抜いて珍しい。
 僕の通っている高校は、中高一貫の進学校。
 だからこう見えて、中学時代の僕は頭が良かったんだと思う。今となっては、順位は下から数えたほうが断然早いけど。
 それもあって、進学率は当然高く、難関大学もたくさんの生徒が受ける。
 だから、僕はこの季節の学校が苦手だ。
 殺気立っていて、とても居心地が良いとは言えないから。
 決して、待ってはくれない進路。
 この先、どうなりたいか。
 そんなこと、これっぽっちも想像なんてできない。
 僕は、どんな大人になっているんだろう。
 たしかにそこにあるはずなのに、視界の先は歪んでいて、姿を捉えることができない。まるで、上から水面を覗いているかのように。
「お待たせ」
 ぐるりと首に回された腕と、後頭部の暖かさと柔らかさ。凛とした声と、ふわりとフローラルのような女の子の香りで、僕を抱きしめているのが藍花だと分かる。
 微かに耳に入る舌打ち。
 辺りを見渡せば、あちこちから視線が飛んでいて、僕はすぐに目をそらす。とげとげしい空気はいっそう鋭さを増し、僕は居たたまれなくなっていた。
 でも、藍花はそういうことを求めてはいないんだろう。
 僕は寄りかかるように彼女の顔を見上げ、「おつかれさま」と言う。すると藍花は微笑みつつ、じゃっかん照れくさそうに「ありがとう」と言った。
 それから僕たちは学校を後にし、駅前のファミレスに入る。
 決まって、四人掛けの席での彼女は、僕の隣に座る。時には寄りかかってきたり、腕を組んできたり。まるで私のものだと言わんばかりの大胆さに、少々意外だったけど、もう慣れてしまった。
 放課後に少しバイトをしている僕と、お小遣いの彼女とでは、軽い単品とドリンクバーしか頼めない。それらをちびちび追加しながら、どうにか店員に怒られないようとどまっていた。
 お互いの親には、まだ言っていない。
 別に隠しているつもりはないけど、わざわざ言うのも何だか小恥ずかしくて。元々いっしょに下校はしていたから、中々バレるようなこともなかった。
 ただ、唯一バレてしまった人はいるけど。
「進路、どうするか決めたの?」
「いや、全然」
「大丈夫? 締め切り近いのに」
「まあ、大丈夫じゃない」
 投げやりっぽく言うと、藍花はブスっと眉を顰める。その顔のままホットコーヒーを飲んでいるのが少しおかしくて、ついくすりと笑ってしまう。彼女はちらりとこっちを見上げると、やや頬を染めて「なに見てんの」とそっぽ向いてしまう。僕の口角はいっそう上がっていた。
 なんか、喉かな時間だな。
 今までも、たまにこんなふうに藍花と過ごすことはあったけど、また違った空間。ゆっくりと感じるのに、時計を見遣れば、あっという間に針は彼女の門限に迫っている。
 たぶん、藍花がすごく微笑ましいから。
 今までほとんど仏頂面で、もっと笑えば良いのに、と思っていた。
 それに比べ、恋人になった藍花はびっくりするくらい素直になったと思う。分かりにくくても、幼馴染の僕からしたら表情はコロコロ変わっていて、学校でも僕との距離は近かった。
 前に「藍花もこういうことするんだ」と驚いて聞いてしまったことがある。藍花は「たくさん片思いしてるんだから、いいでしょ?」と甘えてきた。
 本当に、想像できないことがたくさん起こっている。
 でもそれがある意味、好きになる、ということなのかもしれない。
「藍花さん、こんちは。あと、兄さんも」
 振り返ると、黒の短髪とほんのり褐色肌に快活さを感じる、僕たちとは違う制服姿の少女。
 彼女は、妹の一夏。
 どうやら友達と来ていたらしく、僕たちの姿を見つけて声をかけに来たようだ。僕はおまけに感じるけど、まあしょうがない。
 藍花と一夏はかなり仲が良い。よく遊びに出かけていて、お互いの部屋も行き来している。
 二人の共通点は、大の映画好きだということ。
 中でも洋画が好物なよう。ストーリーはもちろんのこと、渋い顔やマッチョも堪らないらしい。一度語られたことがあるけど、僕にはさっぱりだった。
 それを知っていたからこそ、僕を好きなのが不思議で、一度だけ聞いてみたことがある。藍花曰く、外見のフェチとはいえ、趣味の好きと恋の好きは別ものらしい。もはや、僕には分からない領域だなって思った。
 一夏は友達に断りを入れてから、藍花の隣に座って混じってきた。
 僕たちの関係が変わったことを、一夏だけは知っている。特にボロを出したわけではないが、女の勘というもので分かったらしい。
 僕的には女の勘というより、野生の勘のようなものだと思った。
 一夏は中学までバスケ部で、一度だけ試合を見に行ったことがある。その時は何回も敵のボールをかっさらい、馬鹿みたいにスリーポイントやゴール下からシュートを決めていた。電光石火とは、こういうことを言うんだろう。
 何かしら代表に選ばれるほどすごかったようだけど、高校生活をエンジョイしたいからやめてしまったらしい。せっかく頑張っていたのに勿体ないなとは思いつつ、そういうものかとも思った。
 そもそも、何かに打ち込んだこともない僕に、何かを言う資格はない。
「そういえば、兄さん気づいた?」
「ん?」
「ん、じゃなくて。ほら、藍花さんのこと」
 にこにこしながら、藍花にピタリとくっついて顔を見つめる。僕は首を傾げながらも、同じように彼女に目を凝らす。
 ナチュラルにメイクされていて、下ろした髪が僕には可憐に映って、数か月前と比べると女の子らしい。
 ああ、そういうことか。
「最近、かわいくなったよね」
「藍花さんはずっとかわいいよ」
「ああ、ごめん。一段とかわいいってこと」
 一夏の鋭い眼差しに、慌てて言葉を訂正する。すると打って変わって、一夏はによによ口角を上げ、僕と藍花を交互に見る。
「よかったね、藍花さん?」
「一々言わなくていいから、一夏ちゃん」
 その会話に「あぁ、なるほど」と僕は納得がいって、うんうんと首を振る。
「僕のためってことか」
 つい言葉にしていると、藍花は石像みたいに固まって、横目で僕のほうを見据える。
「浮かれて、悪い?」
「いや、かわいいと思うけど」
 とっさにそう言っていた。でも、本当のこと。今までずっと髪を一つ結びにしていた彼女が、僕のためにおしゃれをしている。
 素直にうれしくて、かわいいなとは思わずにいられなかった。
 藍花はしばらく耳まで赤くしていて、それもまた愛らしいなと思った。まあ、それ以上に妹の一夏のほうが楽しそうにしているけど。
 一夏が友達のところに戻ると、嵐が過ぎ去ったみたいに急に静かになってしまう。間を持たせるように飲み物を取りに行き、少しずつ飲む。そうしていると、藍花が「考えたんだけど」と前置きをした。
「一旦でいいから、進路のこと決めたほうがいいよ。その方が、目標に向かって取り組めると思う」
 僕はその言葉に耳を傾けつつ、俯き考えてしまう。たしかに彼女の言う通りで、いつまでもぼんやり悩んでいても何も始まらない。
 だからといって。
「それに、まだ進路は変えられるんだから」
 前のめりになって、じっと僕のことを見つめる。その自然の湖のように凛とした瞳は、まるで僕の心を見透かしているよう。というより、彼女にはお見通しなのかもしれない。
 藍花は、僕の幼馴染で。
 こんな僕のことを懲りず、ずっと見ていてくれたのだから。
「藍花は、本当に優しいね」
「それは、あなたにだからだよ」
 そっと、僕の手に彼女の手が重なる。それはとても自然のように感じたけど、触れてみると微かに、躊躇いと緊張が僕の中へと走ってくる。
「好きな人に、できるだけ後悔してほしくないから」
 今までも、触れることはあった。
 でもその頃は、こういう感じではなかった気がする。
 あるいは、その時からそうだったのかもしれない。僕が気づいていなかっただけで、ずっと前から。
「ありがと、藍花」
 包み込むように、僕のもう片方の手も重ねる。徐々に、彼女の手の甲も熱を帯びていく。体温が触れているから、だけではないんだろう。
 僕も、彼女の手に触れている箇所だけは温かくなっていた。
「ごめん」
 唐突なごめんに、つい半笑いで「どうしたの?」と聞いてしまう。
「だって、お母さんとのこと知ってるのに、こんなこと言って」
 斜め下を向き、言葉じりを弱くする。僕はそれを見て察して、すぐに笑顔で彼女の頭をぽんぽんと撫でる。
「大丈夫、もう気にしてないから」
 藍花は『本当に?』とでも聞くように眉を顰めていて、僕は笑みのまま二つ頷く。すると彼女は、やっと首を縦に振ってくれた。
「余計かもしれないけど」
 そう前置きをし、藍花は僕の手を再び握る。
「あなたのことは、あなた自身が決めていいんだよ?」
 でもさっきとは異なり、思い込めるように力強かった。眼差しは真剣そのもので、僕はより口角を上げて「そうだね」と返す。けど、その後の彼女は変わらず、少しだけ不安定なように僕は感じてしまった。
 どうやら藍花は、僕がまだ引きずっていると思っているらしい。
 僕は妹の一夏と母親の綾さんとは、血が繋がっていない。つまり、義妹と義母の関係にある。
 それは僕が中学三年生の時、父さんと綾さんが再婚して、お互いの連れ子も一緒に家族になったから。
 正直、不安がなかったといえば嘘になる。他人といきなり暮らすことになるわけで、それは当たり前のことなのかもしれない。
 今は、二人とうまくやれているはず。少なくとも、僕はそう思っている。
 もう、あんな風になりたくない。
 僕と父さんは、僕を生んでくれた母さんと疎遠状態にある。
 それは、母さんが僕に暴力を振るい続けたから。
 母さんは抵抗し続けたらしいけど、自業自得というもので、離婚後は僕との接触を一切禁じられた。
 あの頃は自覚がなかったけど、かなりひどい環境にいたんだと思う。
 小学生の時は何故か要領よく勉強ができていた僕は、母から期待されていた。個人と集団の塾を掛け持ちし、遊ぶ暇は塾が始まるまでの間しかなかった。
 母さんは、自分の学歴がコンプレックスだったのだと、以前父さんに聞いたことがある。
 受験での失敗を繰り返し、就活も中々うまくいかず中小企業にしか就職することができなかった。就職できているだけ良いのではと思うけど、きっとプライドが許せなかったんだと思う。
 それに比べ、父さんは上場企業に就職し、バリバリ働いていた。だから酔っ払ったとき何かは学歴や職歴を棚に上げ、母さんはヒステリックになっていたらしい。
 でも、普段は優しい人だった。
 食事は僕を気遣い、少しでも体調が悪ければとても心配してくれる。誕生日などのお祝いも盛大。何もかも、僕のことを優先してくれる。
 だから、僕も悪かったのではないかと思う。
 中学生の時に成績を落とし、母さんが行きたかった難関高校を受験できる、学力の基準から外れてしまった。
 もし中学受験の時みたいにうまくいっていれば、母さんは僕に暴力を振るう必要もなかった。
 ……分かってる。
 そもそも暴力自体がいけないこと。
 それでも、思わずにいられなかったんだ。
 勉強しかできなかった僕を一番に認めてくれていたのも、母さんだったから。
 でも、今の僕には勉強をする意味はなくなってしまった。
 とたんに、自由になってしまった。
 それから僕の日々は、フワフワと宙に浮いているみたいで、ずっと今という時の中を彷徨っている。
 心配はかけたくなくて、藍花には大丈夫とは言った。
 けど、本当はどうなのか、自分自身ですら分かっていないのかもしれない。
 好きなことをしていい。
 中学まで何もかもレールを敷いてもらっていた僕には、掴みどころのないものだった。
 ある意味、好きという感情は、その人の道しるべになり得るものだと思う。
 でも、好きなものなんて何もない。
 手軽に言葉にできても、心のそこから思っているものは、僕には一つも。
 だからこそ、自由は、僕には手に余るものでしかなくて。
 僕はこれからもずっと、迷子のままなのかもしれない。


「合格おめでと~」
 家に帰るなり、いつの間にか待ち伏せていた綾さんと、一夏に出迎えられる。僕は何度か瞬きをしてから、言葉をつっかえながらも「ありがと」と言えた。
 最初は戸惑ってしまったけど、徐々に僕より嬉しそうな二人を見ていると、何だかおかしくて笑ってしまった。
 去年の秋から進路を悩んだ末、大学に進学することを決めた。
 一応だけど受験勉強をしつつ、AO入試を受けた。
 結果的に夏は惨敗し、秋になってようやく合格通知を受けとることができた。こうして待ち伏せされたのも、一夏たちが配送の書類で事前に知っていたからだった。
「あとは、藍花ちゃんだけね……」
 どこか心配そうに言う綾さんに対し、一夏は「藍花さんなら大丈夫でしょ」と自分のことでもないのに自信満々に言う。
 とはいえ、僕も同感だった。
 藍花いわく受験勉強というものはなく、日々の予習復習さえしていれば何も問題ないらしい。彼女らしく、素直に尊敬できる部分だった。
 僕と同じく、藍花は中学受験をして同じ学校に入学した。
 塾に通い始めたのも同じ時期だった気がする。あの頃はまだ、僕のほうがテストの点数はよかった。いったい、どうしてこんなにも差が広がってしまったのか。まあ、僕が勉強をサボっているからだけど。
 そういえば、どうして藍花は中学受験をしたんだろう。僕からそのことを告げるまで、そういう話しは一切出ていなかったのに。
 何かきっかけでもあったんだろうか。
 今度にでも聞いてみようかなと、スマホのロック画面を見つめる。そこには藍花とのツーショット。もちろんアプリで加工済み。藍花におねだりされ、されるがままに設定されてからそのままだった。
「ラブラブだね」
 とっさに隠すけど、もう遅い。覗き込むように綾さんと一夏がニヤニヤしていて、僕はおもわずため息を吐いてしまう。頬が痒くて、変な汗が出る。
 別に隠しているわけではない。今までだって、前の彼女としたことはあった。けど、こう指摘されると恥ずかしいものなんだと、僕は初めて知った。
「今度もね、デートするんでしょ?」
「あら、そうなの?」
「……そうだけど」
 斜め下を見ながら言う僕に、二人は一段とキャッキャとはしゃいでいる。女の子だなとへきへきしながらも、彼女たちの質問攻めにもちゃんと答えた。正直、僕が恥ずかしいだけの不本意な話題だった。
 けど、この輪から抜け出したいとは、不思議と思えない僕がいる。
 盛り上がりが落ち着いてきた頃、綾さんはお風呂へと行ってしまい、一夏と二人きりになる。
 お父さんは、単身赴任でアメリカに住んでいた。
 元々仕事のできる人だったけど、僕が高校一年生の時に実力が認められ、海外への赴任が決まったらしい。詳しいことは分からないが、とにかくすごいことなのは分かる。
 最初は、不安だった。
 当然と言えば、そうなのかもしれない。
 唯一の血のつながりのある人と離れ、家族になったばかりの二人と暮らすことになるのだから。
 けど、今は大丈夫だった。
 それはこんな僕にも、綾さんと一夏は気さくに接してきてくれたから。
 むしろ僕は、今の方が家族というものをやれているのかもしれない。家族というものが何なのか、僕には見当もつかないけど、そんな気がしていた。
 寝る前に紅茶が飲みたいと思って準備をしていると、「わたしも」とお願いされコップを二つ用意する。
 淹れてあげると、一夏は熱そうにチビチビと飲む。彼女は大の猫舌だった。冷ましてから飲めば良いのに、と前に言ったことがあるけど、どうやらこうしているのが良いのだとか。僕にはよく分からない。
「藍花さん、どう?」
 脈略なく、唐突に聞かれる。僕は固まり口を噤んでいると、一夏は「疲れたり、調子悪そうにしてない?」と付け加えられ、僕は首を横に振る。
「そっか」
「何かあったの?」
 つい聞いてしまう。僕から見て、彼女にそんな素振りはなかった気がする。落ち込むような話もされていない。だとしたら、一夏だけに相談した可能性もあった。
「ううん、何も知らない」
「なら、どうして?」
 一夏は両手で抱えていたコップを置き、よりしっかりと握りしめる。細められた目に、僕は体が強張るのを感じた。
「日に日に表情が沈んでいくような気がして、何となくだけど」
 どうやら、一夏は何かを感じ取っているらしい。僕が鈍感なのか、はたまた藍花が隠しているのか。
 どちらにしろ、情けなくてしょうがなかった。
 後になって気づくのは、いつものことだった。それが原因で、愛想をつかされて振られているのだから。
 でも、藍花は幼馴染で、多くの時間をいっしょに過ごしてきたのに。
 どうして、僕はこんなにも駄目なんだろう。
 いっそのこと、一夏が相談に乗ってあげた方が。
「でもきっと、私が何を言っても無理なんだと思う」
「どうして?」
「きっと、大丈夫って言うはずから」
 目を伏せ、口角を上げる。でもその笑みは僕には苦々しく感じて、僕はどう反応していいか分からなかった。だから、何となく頷くことしかできなかった。
 目が合うと、一夏はとたんにニカっと笑って立ち上がり、バシバシと僕の背中を叩いた。
「ちゃんと、気にかけてあげなきゃだめだよ?」
 まあまあ痛くて表情が歪みながら見上げると、逃げるようにさっさとリビングを出ていく。
 僕は、ぼんやりとニュースを眺めた。本当にそこへ目を向けているだけで、何も頭には入ってこない。
 今まで、藍花が弱音を吐いているところは見たことがなかった。
 普段からきちんとしていて、それでも趣味を楽しんでいて、世の学生のお手本みたいな女の子。
 だからこそ、何に悩んでいるのかあまり想像がつかない。
 藍花は、何に悩んでいるんだろう。
 やはり、受験かな。
 よくよく考えれば、しっかり準備をしているとはいえ、受験疲れをしないはずがない。ちゃんとするほど、疲れてしまうもの。中学受験の時、僕は思い知っていた。
 もしそうだとして、僕にできることか。
 受験の手伝いができるはずもなく、むしろ邪魔になりそうで、気の利いたことも言えそうにない。
 ちらりと、カレンダーを見据える。
 そろそろ、彼女の誕生日。
 去年はたしか、お揃いのネックレスをプレゼントした。藍花は意外とそういうお揃い系が好きなことを知って、制服を着ても中に隠せるように。決して高い物ではないけど、彼女は毎日のようにつけてくれている。
 僕はいつも以上に念入りに、プレゼントやデートプランを考え出す。せめて、この日はリラックスさせてあげたいから。
 それが何かしら、藍花の心の助けになればいいなと思った。


「香水?」
「うん。リラックスできるように、優しい香り」
 藍花の手を取り、シュッと一回かける。仄かに柑橘の香りが漂う。「いい匂い」と彼女の素直な感想が聞けて、僕は微笑む。
「これ、いつも使ってるやつだよね?」
「そう。受験勉強中はあまり会えないから、これを僕だと思って頑張ってほしいなって」
 一言足すと、藍花はこっちをじっと見てから、ぎゅっと僕を抱きしめた。勢いが強くてお互い倒れ込んでしまう。
「……ねえ」
「ん?」
「私のこと、好き?」
「うん、好きだよ」
 すぐに出た言葉に、彼女はいっそう腕に力を込める。少し、痛いくらいに。
「……そっか」
 消え入るような声。
 表情が見えなくて、覗き込もうとする。でもその前に、一気に彼女の顔が近づき、無理やり唇が重なる。
 離れれば、潤んだリップと、静かな笑み。
 心なしか、彼女の唇は冷えているような気もした。
 メイクのリップをしている時はあまりキスをしてこないけど、今日は保湿のリップ。彼女の、甘えたい時のサインだった。
 再び、唇を交わせる。
 入り込み、絡む舌は柔らかく、初めてした時の勢い任せの硬さはもうない。甘い吐息が彼女から零れ、頃合いを見て離れると、ひとすじ糸を引く。それを恥ずかしそうに拭う姿を見て、僕はそっと頬に口づけをし、彼女の手首に顔を近づける。
「藍花、こういうの好きかなって思ったんだけど、どうかな?」
「うん、好き」
「ならよかった」
 そう微笑み合い、僕たちはもう一度だけ唇を重ねた。
 今日は、藍花の誕生日。
 去年は少し遠出してクリスマスのイルミネーションを先取りして見に行ったけど、今年は僕の部屋だった。
 高校三年生の冬は、詰めの時期。
 できるだけそれに協力したくて、同じマンション内の僕の部屋なら、少しでも勉強の時間を作ってあげられると思ったから。
 数日前から念入りに掃除して、引かれない程度に誕生日っぽく装飾。彼女のいつも飲むドリンクや、カットケーキやお菓子もテーブルに広げ、準備万端だった。
 案の定、彼女は僕の部屋に入っては驚き、とてもいい笑顔で喜んでくれた。それからもずっと楽しそう。
 僕には、そうとしか思えなかった。
 だから一々、この空気を壊してまで聞く必要はないと思っていた。
 きっと藍花なら、必要になった時に頼ってくれるはず。
 そう、慢心していた。
 
 
『別れよ』
 そのLINEの一言に、寝ぼけていた頭が一気に覚める。数十秒何を言っているのか分からなかったけど、理解すると、すぐさま返信をしようとした。
 けれど、その前に藍花からメッセージが送られてきた。
『あの公園に来てほしい』
 さあっと、血の気が引くのを感じる。
 きっと、僕が既読するのを待っていた。最初は何かの冗談だと疑っていたけど、これは本気だ。そもそも、彼女はこういう冗談を言う子ではなかった。
 あの公園。
 僕らで共通している場所と言えば、かつてずっと使っていたあの公園しかない。僕は寝正月でぼけていた体に鞭を打ち、上にあったものを適当に着て、急いで外へ出る。
 走っていると、違和感だった。
 いつもの道なのに、まるで初めての景色に感じて。
 駆け抜け、辿り着いて、ようやっと激しく息切れをしていることに気づく。張り裂けるような冷たい空気が肺にこもり、ぎゅっと胸の辺りを押さえる。
 公園にはすでに藍花がいて、僕に気がついたのかベンチから立ち上がる。すると目を見開き、僕のところへ駆け寄ってきた。
「そんな恰好、寒いに決まってる」
 別れたいと言っている相手に、藍花は自分のマフラーを貸してくれる。急いでいたから気づかなかったけど、ロンTにダウンジャケット。これじゃあ寒いのは当たり前だった。
「藍花……どうしたの、急に」
 彼女の手を掴み、じっと俯いたまま聞く。彼女の影がくるりと回るのを見て、僕はとっさに顔を上げた。
「急じゃない、ずっと思ってた」
 僕は、後ろ姿を見据えた。
 ずっと……ずっと、彼女は思っていたのか。
 二人で放課後に会っていた時も、しばらく会えない日に電話をしていた時も、誕生日の時も。
 どうして。
 僕が、何かしてしまったんだろうか。
 いや、そうに違いない。
 今までだって、僕は知らないうちに何かしてしまって、振られてきたのだから。
 素直に、受け入れよう。
 でも、その前に一つだけ、確認したことがあった。
「本当に、僕と別れたいの?」
 それは、藍花だから思ったことだった。
 いくら鈍感な僕だからって、今までの彼女と藍花が同じではないことは分かる。
 こっぴどく、僕の駄目なところを指摘された。抽象的にも、具体的にも。でもそれは決まって、僕がつまらない人間だからと言って。
 でも、藍花は違うと思う。
 そうでなければ、ここまで幼馴染も、片思いもしてくれないはずだから。
 僕に良いところがあるのかは分からないけど、悪いところを含めて好きでいてくれた。
 それなのに、どうして別れたいのか。
 それは、本当に僕がいけないからなのか。
 正直、見当もつかなかった。
「どうして、誕生日に香水を選んでくれたの?」
「それは、藍花に喜んでもらえると思ったから」
「そうじゃない……あなたが、どうして香水を選んだの?」
 僕には、彼女の言っている意味をかみ砕けなかった。
「藍花は、僕のことが好きじゃなくなったの?」
 近寄り、そう聞く。
 藍花はじっとこっちを見つめると、ほろり、微動だにしない瞳から一筋の雫が滴る。片方から零れたそれは、不透明で、幾つもの色が混ざって見えた。訴えかけられ、僕は気づけば口を噤んでいた。
「好きだから、別れたいの」
 別れたい。
 その言葉を声にした途端、唇を噛みしめ、ぽろぽろと涙が溢れ出す。僕はハンカチを取り出し、それを拭おうとする。だけど、手で払いのけられてしまう。
「あなたを思い出すために、くれた香水を使ってしまう」
 他にも、色々あるけど。
 そう胸にあるはずのネックレスに手を当てる彼女。
「苦しくなるだけなのに、心はどうしようもなく求めてしまうから」
 いっそう、彼女の手に力が込められ、厚手のニットに深いしわができる。
「あなたの彼女になってから、あなたが別の人みたいに感じる」
 そっと、僕の胸に手を当てる。震えが胸を伝って、心に染みて。ひどく傷んで、表情が歪んでしまう。
「私を見てくれない。彼女っていう存在としてしか」
 僕は黙って、彼女の泣き顔しか見ることができなかった……いやすでに、それさえもできていない。
 本当は、涙を拭う彼女の手だけにずっと目を凝らしていた。
 そうしなければ、僕はもう何も言えなくなってしまうような、そんな気がしたから。
 藍花の気持ちは本当だ。
 でも、それでも、僕は考えてしまう。
 好きだから、別れたい。
 それはつまり、本当は別れたくないのではないかと。
 好きだから、別れたい。
 好きなのに、どうして。
 僕には、訳が分からなかった。
「もう少し、別れるのは考えてみない?」
 気づけば、言葉が零れていた。
「それは、私のため? それとも、あなたのため?」
 唐突に、彼女から表情が消える。
「……二人のため」
 そう答える僕の声はたぶん、今までにないくらい小さく弱かったと思う。
「そういうの、求めてない」
 ため息交じりの一言に一蹴され、彼女は睨みつけるように、揺れ動く瞳で僕を見据える。
「優しいだけが、優しさじゃない」
 くぐもった声。
「彼女に優しい自分が好きなだけでしょ?」
 だけど胸を貫くような、鋭く切実な言葉だった。
 今まで呆れるような、小馬鹿にするような、それでも愛のこもった言葉を受けることは多々あったけど。
 彼女の心の底からの暴力を浴びたのは、今日が最初で最後だった。


――それから藍花とは一言も言葉を交わさず卒業し、大学一年生として秋を迎えた。
 講義がない日は、バイトに明け暮れる日々。
 それは、早く一人暮らしがしたいから。
 妹の一夏とは、本当にたまにだけど話す。
 でも藍花に振られてからというものの、気を使ってくれているのか、藍花の話は一切持ち出さなくなった。
 無理していることくらい、さすがに僕にでも分かる。
 それでも変わらず藍花と仲良くしてくれているのは、彼女の優しさの賜物なんだろう。そしてそれは、僕にとっても救いではあった。
 だから、甘えてはいけない。
 僕がいなければ、二人はもっと自然でいられる。
 でもそれだけが、一人暮らしをしたい理由ではなくて。
 僕が、一人になりたいというだけ。
 どうせ傷つけるくらいなら、もう、誰とも関わりを持ちたくない。
 ただの、僕のわがままだった。
 綾さんには、社会勉強のために一人暮らしがしたいと伝えるつもり。
 嘘ではない。
 本当のことを言って、もう一つの本当を隠そうとしているだけ。
 そんな小細工をしたところで、気づかれているかもしれない。けど、そんなことはどうでもよかった。
 大学では、孤立している。
 といっても一人でいるわけではなくて、適当に友達未満を続けている。数年も経てば忘れてしまいそうなくらい、薄い関係性。
 それは一人になってしまうと、誰かと深い関係を築く、きっかけになってしまいそうだから。
 いじめられていた時、変わらず僕の側にいてくれた、藍花と同じように。
 だから、本当の意味で一人になれるのは、夜が更けてから。
 それは一年後の春、一人暮らしを始めてからも変わらなかった。
 講義やバイト終わりになると、カフェやファミレスで時間を潰している。それでも帰りたくなかったら、ぼんやりと、夜の街に流れていく。
 家にいても、結局は一人。
 だけど、ずっとそうしていると、
 たまにだけど、気が狂いそうなくらい寒気を感じるから。
 今日もカフェでコーヒーを飲みながら時間を過ごした。そのまま帰路に着き、道路や空を眺める。でも街灯や車のフロントライトが眩しく、星はほとんど見えなかった。
 そういえば、僕の住んでいた町は高い建物や車通りも少なく、住宅地にしては星がよく見えていた。
 ここら辺では、見えなさそう。
 そう周囲を見渡してみると、やや離れたところに丘があるのが分かる。暗くてよく見えないけど、シルエット的に木が生い茂っているようだった。
 今まで視界には入っていたけど、そこに何があるのかは知らなかった。
 暇だし、行ってみるか。
 近づいてみると、さっきいた場所と比べてさらに暗い。見つけたのは、見上げるほど続く階段道だった。
 絨毯のように、足元が桜の花びらで敷き詰められていた。眺めながら、一段ずつ登っていく。四月も終わりだから当たり前なんだけど、胸の辺りが冷たく沈んでいく。
 終わりは、必ず来る。
 桜はそれがはっきりとしていて、また春になれば咲き誇る。
 何度も、繰り返す。
 僕も同じように、来年には春を迎える。
 ふと、思ってしまった。
 あと何度、春が訪れれば終わりが来るのかと。
 一番上まで辿り着くと、古びた鳥居。
 そこをくぐると、見るからに寂れた神社が立っていた。
 薄暗くて、誰も近寄らなさそう。
 真っ先にそう思ったけど、月明かりの下で、じっと夜空を眺めている男性が一人。
 白髪の襟足は肩までかかっていて、月を見据える青い瞳は透き通った海のように眩しかった。
 外国の方だろうか。
 視界を、桜の花びらが吹き抜ける。
 花吹雪の合間を縫うように、視線が合っていく。
 桜の舞い降りるより遅く、ゆっくりと。
「今宵も、月がきれいだな」
 でもすぐに僕からは視線を外し、唇の片端を上げ、浮世離れした言葉を零す。まとわりつくように低いけど、静かで落ち着く声。
 よく見れば、彼は着物を着ていた。白を基調としていて、悠々とした佇まいも相まって、どこか神々しくも感じる。
 今宵って使う人、初めて見た。
 それに着物を着ているということは、親日家の方なんだろうか。それにしては、あまりにも日本語が流暢だったけど。
 いや、そんなことはどうでもよくて。
 本当はここで一人になりたかったけど、しょうがない。今日のところは先客の方に譲ろう。
「こんにちは」
 とはいえ、一度目は合っている。それなのに無視もよくないと思い、とりあえず挨拶だけをしてさっさと去ろう。
 だけど。
「……ワタシのことが、見えるのか?」
 張り詰めるような声に、僕はおもわず振り返る。
 彼はまん丸く目と口を開き、じいっと僕のことを凝視していた。でも僕は言っていることが理解できなくて、首を傾げてしまう。
 見える?
 そんなの当たり前のことで、何を驚いているのだろう。
 そんなふうにどこか小馬鹿にするようなことを考えていたけど、すぐさま立場は逆転することになる。
 なぜなら、彼はこの恋岬神社の神様だったのだから。
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