春が訪れ、いつしか愛になりますように
第六章:Time will solve
彼は、涼やかな顔で空を仰いでいる。
雲一つなく、どこまでも青く澄み渡る。太陽が心なしか近く感じるのは、おそらく焼けそうなくらい日差しが強いせい。
汗がだらだらと垂れて気持ち悪く、何回も額を拭う。それに比べ、僕の隣にいるこの人は汗一つかくことなく、だらりと欠伸をかいている。
それは、この神社の神様だから。
あの日偶然、恋岬神社に立ち寄った際、僕は神様と出会った。
普通は神様が人に見えるはずがないけど、何故か僕にだけは見えるらしい。彼いわく、何か似た要素があるのかもしれない、と言っていた。それが何なのか、僕には見当もつかないけど。そもそも、神様と人間だし。
初めて見た時は、正直、戸惑いを隠せなかった。
それでも話していくと、意外と普通の人間みたいで、話というか、空気感というか、そういうのが僕らは合うらしい。気づけば、週に数回は会う関係になっていた。
ぼんやりと空を眺めながら、昼寝をするのが好きらしい。風の音とか、動物たちのさえずりを聞きながら、たまには雨の日なんかも悪くないのだという。おじさんというか、ご年配の方っぽいというか。
でも、そういうの分かるなって思った。
誰かに言うとだいたい笑われるけど、何もない日中は昼寝をしていることが多いから。
もはや僕にとって、一人暮らしを始めて、最初の友だちは神様と言っていいのかもしれない。
「今日はバイトだったのではないか?」
「もうやめたから」
「またか」
眉を顰め、ため息を吐かれる。無理もない。これで彼にバイトをやめた報告をするのは、四回目なのだから。
呆れられても、怒られても仕方がない。
そうやって笑顔になるための準備をしていると、神様は何故か笑みを浮かべ、僕をじっと見た。
「そういうこともある」
唇の片端を上げてにやりと笑っていたけど、すぐに真っ直ぐな眼差しになる。彼が今見ているのは、本殿に続く石の段差だった。
「人間は自由だ。合わなければ、次を探せばいい」
青空のような水色の瞳はまるで、見えない誰かを見据えているようで。
そしてその言葉は、力のこもった、どこか自分自身に言い聞かせているように思えてならなかった。
人間は自由だと、彼は言った。
自由とは、本当に自由なのだろうか。
僕はその自由に、生まれてこの方、縛られ続けているというのに。
でも、彼はそういう意味で言ったのではないことは、感じている。
人間にはたくさんの選択肢がある、ということなんだと思う。そう思うのは、もしかしたら彼自身に、自由、というものがないからかもしれない。
ここ以外で、神様と会ったことがない。
神様だから、この恋岬神社から出られないんだろうか。
そういう意味では、僕は自由だった。
「そうだね、またバイト探してみるよ」
そう言うと、神様はじっと僕を見る。なんだろうと首を傾げると、彼は段差に腰掛け、膝の上で頬杖をつく。
「前から思っていたが、零夜にはやりたいことはないのか? 人間には、好きとか嫌いとか、そういうのがある印象だが」
訝しげにこちらを見上げる彼に、僕もとなりに座る。僕は一つため息を吐き、くしゃくしゃのタバコケースを取り出し、一つ吸った。高校を卒業する前から、付き合いで吸うようになった。普段は吸わない人がいたら、絶対にタバコは出さない。受動喫煙はさせたくないから。ここには神様しかいないから関係なくて、今は何となく吸いたい気分になっていた。
「それは、偏見じゃない? ない人もいるよ」
「君みたいに?」
「そう」
相槌を打ち、また煙を浮かせる。景色が淡く灰色がかって、僕はそれ見て少し心が落ち着く。日向と昼寝は好きだけど、晴天の空の色は苦手なんだと思う。僕には、あまりにも透き通っていて、そう見えてしまう僕は、はみ出し者のように感じてしまうから。
「まあ、気長に探せばいい」
「気長に、か」
やや口角を上がってしまうと、神様はうんうんと頷き、僕の頭を撫でようとする。案の定、触れることはできなくて、彼は苦笑いしてその手を見据える。
「案外、近くにあるかもしれないからな」
ぎゅっと、拳を握りしめる。細めた瞳は、弱々しく儚げだった。
触れることができなかった。
その事実はもしかしたら、彼にとってすごく複雑なことなのかもしれない。
香ばしい匂いが、部屋を満たしていた。
炒めたソーセージやピーマン、玉ねぎに、ケチャップがメインのソースを加える。僕のナポリタンには、隠し味で生クリームが入っていて、少しだけ白っぽい。ゆで汁を入れ、とろみをつけるために乳化し、後は麺と和えて完成。
食べてみるとあまり酸味もなくて、まろやかにできていると思う。パスタもよく絡んで、良い感じだった。
それでも、当たり前だけど店長のナポリタンには足元にも及ばない。
僕はバイトをやめた後、『喫茶店elena』という店がバイトを募集しているのを偶々見つけ、面接をしてみるとすんなり採用してくれた。
とはいえ問題なのはその先で、僕は大学生になってからすぐバイトをやめているということ。働いているのが苦痛で、どうしても続けることができなかった。
それに、人間関係のこともある。
何かと恋愛絡みで巻き込まれることも少なくなく、妬まれて嫌がらせされることもあり、辞めざるを得ない時もあったほど。
でも、夏から働いて冬になった。
僕は『喫茶店elena』で働くことに、やりがいのようなものを感じていた。
アットホームな感じで、たまに変な人も来るけど、基本的にお客さんは良い人ばかり。同じ従業員の人も気さくで、丁寧に教えてくれるから仕事もやりやすかった。
何より、店長がとてもいい人だ。
仕事外のことでも、料理やコーヒーの作り方を聞けば教えてくれて、何より視野が広くて従業員やお客さんのことをとても気にかけている。
加えてパスタやコーヒーは、店長が作ると格別にうまい。
そんなの、みんなから愛されないはずがなかった。
だからこそ不思議なことがある。
それは、店長には奥さんがいないということだった。
「案外、近くにあるかもしれない、か」
日が落ちようとしている夕方。
空の色はオレンジから深いブルーに移り変わり、お客さんも段々と一息つく雰囲気から、夕食のメニューへと切り替わっていく。
ハンバーグやオムライス。中でもパスタは人気で、見渡せば様々なソースが、落ち着いた店内を彩っていた。
バイトの度に、おいしそうだなって思わされる。
いつか、僕も作れるようになる日が来るのだろうか。
まだ始めたばかりのバイトという立ち位置なのに、ふとそんな想像をしてしまった。
『喫茶店elena』は近所にある、特に地元に愛されるお店。
案外、近くにあるかもしれない。
神様のお告げは、案外当たるもんだなと、少し失礼なことを思ってしまった。
彼のおかげで、こうして居場所のようなものを見つけられた。
だからこそ僕は、彼のためにしてあげたいことがある。
それが叶うのは、あの人にもかかっているけど。
「零くん」
「はい、店長」
「金曜日だから関係ないとは思うけれど、明日、お店はお休みになるから」
「何か用事でもあるんですか?」
聞いてみると、店長はやや口角を上げ、がらりと店内を見渡した。
「というより、毎年この日はお休みなんだ」
穏やかに微笑んでいるけど、店内の活気にかき消されるように、声は霞んでいたように感じた。
お休みにするくらいだから、店長にとって重要な日なんだろう。
思えば、彼の友人関係は働いているうちに少し見たことはあったけど、家族関係のことは一切聞かない。
でも、余計な詮索も良くない気がする。僕自身も、絶対にされたくないことだし。それにお客さんがたくさん来てしまって、会話を遮られてしまった。
いつか、店長のことを知れる日が来たらいいな。
そう思うのはたしかで、昨年までだったら想像もできない気持ちだった。
それからは会社員や学生、親子連れなど、たくさんのお客さんでいっぱいになった後、ようやく店内が落ち着きを見せ始めた頃。
多くの料理を作ってきた店長は疲れた顔一つ見せず、食器を洗浄する僕の隣で、丁寧かつきれいに拭いていた。
「そういえば、この前パスタの作り方を教わりたいと言っていたね?」
「はい」
「もしよければ、この後でも教えようか?」
「いいんですか、ぜひ!」
柄にもなく興奮して声が大きくなってしまうと、店長はとんとんと人差し指を口に当てる。僕はかあっと顔が熱くなりつつ、すみませんと謝った。
「でも、こんな簡単に作り方教えてもいいんですか? 僕は、ただのバイトですし」
「たしかに、営業上は良くないことなのかもしれない」
僕から見たら十分きれいなワイングラスも、店長は全体を見回し、また布を当てて拭き取る。店長は、一つの水滴や微妙な曇りも許さない。
それは、仕事だからということもあるのかもしれない。
「だけどね、幸せなひと時よりも優先できるものを、私は知らないから」
ゆるりと目元を細め、店内にいるお客さんたちを見据える。まばらになってきたからこそ、お客さんの顔がよく見える。おいしそうにオムライスを頬張る子どもや、それを見守りながらコーヒーを飲む母親。その側に座るカップルも、おいしそうにパスタを食べながら、仲睦まじく会話をしている。
たしかにこの景色は、幸せ、という言葉以外では例えようがない気がした。
ちらりと、店長はこちらを向き、何か納得したように二つ頷く。首を傾げると、彼はくすりと微笑み、また客席の方へと目を向けた。
「未来ある君の願いを邪魔するなんてこと、とても私にはできないよ」
僕は肩を強張らせ、少し俯いてしまう。
店長はお客さんだけではなく、僕たち従業員のことまで考えてくれている。知っていたけど、改めてすごい人だなって感心してしまった。
「すごいですね、店長は。誰かのために、そこまで考えられるなんて」
「いいや、私自身のためでもあるよ」
左右に首を振る彼に、僕はつい首を傾げてしまう。店長はピカピカに磨いたグラスに満足げに笑みを浮かべ、ぽんぽんと僕の肩を叩いた。
「僕と関わった人の幸せは、私も幸せな気持ちになれるからね」
当たり前のように、店長は言葉にする。
でも僕は、それがどれだけ難しいかを知っている。
幸せにしたいと思っても、幸せにすることは難しい。ましてや、それで自分自身は幸せに感じることなんて、僕には無理なような気がしてならない。
僕は、前科持ちだ。
幸せにしなければいけない人を、ひどく傷つけてしまった。
だから僕は、誰かを幸せにしたいだなんて、おこがましいことを思ってはいけない。
お客さんに声をかけられ、オーダーを取ろうとする。でも、つい顔をじっと見てしまう。見覚えのある顔だった。以前見た時は髪がブラウンだったけど、今は深いグレーカラーで、クール系の美人な女性。たしか、晴さんの友だちの。
「京ちゃんさん、ですか?」
「そうだけど、京花でいいよ」
「じゃあ、京花さんで。京花さんも、常連さんだったんですね」
「晴にオススメされてからかな。あの子、こういう店好きだから」
「あー、こういうレトロなお店好きそうですよね」
「へぇ。よく分かってるじゃん」
どこか得意げに唇の片端を上げる彼女に、ははっと僕はとりあえず口角を上げる。どうやら僕は、京花さんのことが少し苦手っぽい。だから注文だけ取って早く去ろうと思ったけど、彼女の一言に引き留められる。
「晴のこと、どう思ってる?」
「どうとは?」
「分かってて聞き返してるでしょ?」
あえて聞き返してみて誤魔化そうと思ったけど、彼女は足を組み、頬杖を付きながら僕を見上げる。やはり、僕はこの人が苦手のようだ。
「友達、みたいなものです」
「恋愛感情はないの?」
ど直球な質問に少しうろたえそうになるけど、咳払い一つ吐き、どうにか彼女から目をそらさないようにする。
「苦手なんですよ。好意を向けられても、それ以上のものを返すことができないので」
言い切って、僕は胸の内でため息が零れる。
いったい、何を言っているのか。
ほぼ初対面の相手に寒いことを言ったところで、うざいだけなのに。それか、何言ってんのって笑われるだけ。むしろ、後者であってくれた方がありがたい。
けど。
「一々返す必要ないでしょ」
彼女は横髪を耳にかけ、すでに注文してあったルイボスティーを静かに飲む。強い姿勢とは裏腹に、とても綺麗な飲み方をするなと思った。
あまりにも真っ直ぐな言葉に、僕は口を噤み、数回瞬きをしてしまう。
「だって、したくてしてることなんだから……きっとお互いに愛があれば、それでいいんだから」
彼女は無意識なのか、お腹に手を当てる。その眼差しは僕に当てる言葉とは違って、愛おしそうに柔らかく笑んでいた。
「もしかして、お子さんができたんですか?」
「うん、つい数週間前だけど」
僕はおめでとうございますとお祝いし、京花さんは少し照れくさそうにありがとうと言う。そこで僕は、彼女がルイボスティーを飲んでいる意味を知った。
「だから、ルイボスティーなんですね」
「そう、ノンカフェインだから。飲みすぎも良くないらしいけど」
「お子さん、楽しみですね」
そう言うと、京花さんの凛とした表情が崩れ、幸せの溢れ出た笑顔になる。
「いっぱい愛情を注ぎたい。この子に、愛してることを伝えたいから」
まだお腹は目立たないけど、たしかにそこにある命に、語りかけるように声をかける。撫でる手は、子どもの頭に触れるように優しく、温かい。
愛してることを伝えたくて、愛情を注ぐ。
テレビとかでぼんやりと聞いていれば、当たり前のように聞こえてくるけど、目の前の母という存在を前にすると、胸に訴えかけてくる重みを感じずにはいられない。
母親は、とても偉大だ。
母さんも、綾さんも、こんな気持ちだったんだろうか。
それなのに僕は、本当にどうしようもないと思った。
注がれていたはずの愛を、無下にしてしまったのだから。
「時には、言葉にしなきゃいけないこともあるんだよ?」
小首を傾げると、さらりと長い髪が揺れた。すると京花さんはそれだけを言い、注文をせずにそのままお会計をして帰ってしまった。それなら、どうして僕のことを呼んだのだろう。よく分からない人だ。
京花さんはかっこいい人だと思った。
立ち振る舞いや背格好、言葉選びも全てが真っ直ぐな人で、こういうのを憧れの女性と言うのだろう。
でもそれと同時に彼女自身と、堂々としたファッションが、どこか不安定に感じてしまうのは、僕だけなんだろうか。
閉店一時間前で、そろそろお客さんも来なくなり、裏では閉店作業が同時進行される時間帯。
店の方は料理を作るのを含め、店長だけでも回ってしまうから、僕は裏方に行くことになる。だから客席の方をあまり気にすることはないけれど、店長のある一言に、僕はおもわず振り向いてしまった。
「いらっしゃい、山下さん」
「こんばんは、店長」
顔を覗かすと、そこにはたしかに晴さんの姿があって、僕は二人の下へ向かった。
「晴さん、木曜日に来るの珍しいですね」
「うん、少し用があって」
「そうなんですね」
用ってなんだろう。そう考えていると、晴さんは僕の方を見て小首を傾げた。
「今日、何時に終わる」
「え、閉店までですけど」
「じゃあ、待ってるね」
そこで用があるというのは、僕のことなのだと知る。はいと二つ返事をし、僕は仕事場に戻る。
けっきょく、用というのは何だったのか。
分からないままになってしまったけど、後で分かることかと特に気にはしなかった。その後の仕事は、どこか軽やかに動けたような気がした。
からんからん。
ドアベルをくぐり、僕たちは寒空の下を歩く。本来、従業員は裏側から出入りするけど、今回は晴さんも一緒ということもあって、正面から店を後にした。今日、本当は店長にパスタの作り方を教えてもらうはずだったけど、晴さんがいるからと気を利かせてまた今度にしてもらえた。本当にいい人だなと、改めて思う。
僕たちは隣り合いながら、他愛もない話しをした。最近一段と寒くなって来たとか、会社は馬鹿みたいに乾燥していて、喉が痛いとか。
その時に、京花さんの妊娠を知ったことを話すと、晴は目をかっぴらいて驚いていて、つい声を出して笑ってしまった。どうやら京花さんにまだ知らされていなかったらしく、「京ちゃんはそういうところあるから」と苦笑いをしていて、僕は再び笑ってしまった。
恋岬神社に辿り着く。
でも何か変わった様子もなく、彼女はいつも通りだった。わざわざ会いに来たのだから、何かしらあるかと思ったのに。
いっこうにそんな気配が見えず、とうとう僕は彼女に聞いていることにした。
「何かあったんじゃないですか?」
晴さんは僕の問いに、俯き眉を顰める。
「そうだね……でも、もう大丈夫になったかな」
ははっと笑顔で言い、僕は頷いた。すると彼女は僕の目をしっかりと見つめながら、一段と笑みを深めた。
「もう、確かめられたから」
はっきりと言い、彼女は夜空に浮かぶ月を見上げる。澄んだ空気は、妙に月明かりを青くして、彼女の笑顔を美しく彩る。
彼女の顔は、とても晴れやかだった。
まるで雲一つかかっていない、今宵の月みたいに。
「きれいですね」
「そうだね」
僕をちらりと見て、再び夜空へと視線を向ける。でも僕はこっそりと、その横顔を見つめていた。
晴さんは、少し勘違いしている。
カワウソだろうか。顔も小さくて、笑った時にクシャっと細くなる目元は、ついかわいらしいなと思ってしまう。
抱きしめたいな、と思ってしまう。
彼女の、僕よりも一回り細い体を、ぎゅっと僕の腕の中で。
こんな気持ち、初めてだった。
今まで抱きしめてあげたいと感じたことはあっても、僕から抱きしめたいと思ったことは一度もなかった。
なんだろう、これ。
僕は、おかしくなってしまったのだろうか。
言葉にしなきゃいけない、か。
京子さんの言葉を思い出し、晴さんの顔に目を据える。彼女もこっちを向くと、笑いかけてくれて、気づけば僕も笑顔になる。
手を、彼女の小さく細い手に伸ばしそうになるけど、ぎゅっと強く拳を握り、後ろに隠す。
嘘だった。
この前のことだって、冗談なんかじゃなかった。
本当は彼女に触れたくて、現に、その手を触れようとしてしまった。
でも、そんなことがあってはいけない。
彼女はそんなことを望んではいなくて、変わらず、金曜日に会うだけの友だちみたいな関係でいたいと思っているはず。
だから僕が何か行動してしまえば、このひと時を壊してしまうことになる。
また、あの時のように傷つけてしまう。
それだけは、もう、絶対にしたくなかった。
しばらく話し込んだ後、僕は晴さんを近所まで送った。いつもならそのまま家に帰るけど、今日は何となく、また恋岬神社に戻ってきた。
「今日も、出てこなくてよかったの?」
「無理に決まっているだろう」
そろりと出てきたこの神社の神様は、もはや幽霊みたいになっていて、僕はつい小さく笑ってしまった。
「心残りなんでしょ? 晴さんのこと」
「それならもう、元気にやっていることは知れているから問題ない」
腕を組み、木に寄りかかりながら言う。僕は一つため息を吐いてしまう。どう見ても強がっているようにしか見えなかった。
僕が晴さんと出会った日、神様の驚いた顔は忘れられない。見えているはずがないのに、彼は一目散に木の陰に隠れてしまった。あまりにも変な挙動をするものだから後々問い詰めてみると、どうやら晴さんが高校生の時、神様は知り合っていたらしい。
しかし数年後には疎遠になってしまった。
それは神様自ら、彼女の前に姿を現さなくなったから。
その理由は、神様が人間に対して抱いてはいけない感情を抱いてしまったから。
神様の心残りというのは、その後も晴さんが元気にしているかということだった。
それから僕と晴さんが会うたびに隠れて、彼女の様子を見ているらしい。見えないからよかったものの、完全に見た目はストーカーそのものだった。
でも、気持ちは分かる気がする。
僕も傷つけた人ともう一度会えるかと言われれば、きっとできないだろうから。
実際、藍花とは一度も会えていない。
つくづく、僕らは似た者どうしだなって思わされた。
彼女に対して、抱いてしまった感情も含め。
「それより、零夜こそいいのか?」
「何が?」
「晴に想いを告げなくて」
神様は落ち葉を拾い上げ、離せばひらりと透明な風に乗って夜空を舞う。人に触れることはできなくても、それ以外に干渉することはできるようだ。
「何のこと?」
ちらりとこちらを見た神様に、僕は笑顔を作って返す。彼はそんな僕に目を凝らして、にぃっと口角を上げて近づいてくる。
「ワタシは、仮にも恋愛の神様なんだがな」
両腕を組み、下から覗き込んでくる彼の表情は仰々しく意地悪い。白状させるために恋愛の神様というワードを使ったのかもしれないけど、もしかしたら春さんと過ごしている姿を見れば、一目瞭然なのかもしれない。実際、京花さんにも感づかれていそうだから。
「いいんだよ、そういうのは」
ため息を吐き、そっぽを向く。ぼんやりと、いつも晴さんと座っている石段を見つめる。
彼女はいつも僕に、何気ないことを話す。それはたぶん、彼女が僕のこと信用や、親しみを持ってくれているからだと思いたい。
でも逆に、僕のことをあまり聞いて来ようとはしない。おそらく、僕自身にはあまり興味はないから。
彼女は、僕との何気ない夜のひと時を望んでいる。
それ以上に深まりを、求めてはいない。
だからこの先、晴さんが別の誰かに恋をして、めでたく付き合ったり結婚したり、幸せになってくれればいい。
僕のことを、必要としないくらいに。
この時までは、そう思っていた。
金曜日の夜。
この日のことを、僕はあまり覚えていない。
僕は電車に乗り、買い物に来ていた。せっかく店長にレシピを教えてもらえるのなら、もう少しいい料理器具を揃えておきたいと思って。
晴さんが、男性とレストランから出てくるのが見える。
短髪の前髪をアップにしていて、高身長イケメンゆえか、街中ですれ違ってきたサラリーマンとは比べものにならないくらいスーツとチェスターコートが様になっていた。
彼女が昨夜、あんなにも晴れやかな表情をしていたのは、そういうことだったんだ。
晴さんと目が合う前に、すぐその場を去った。
横目に微笑む晴さんの顔が見えたけど、見て見ぬふりをした。
僕の心は揺れ動き、血の気が引いていくのが分かって、それなのに異様に胸の辺りが熱く、痛くて苦しい。
胸が、張り裂けそうだった。
そこに手を当て、僕は深呼吸をする。
これは、僕の気持ちじゃない。
時が過ぎれば、忘れさせてくれる。気のせいだって、思わせてくれる。
そう、何回だって言い聞かせた。
雲一つなく、どこまでも青く澄み渡る。太陽が心なしか近く感じるのは、おそらく焼けそうなくらい日差しが強いせい。
汗がだらだらと垂れて気持ち悪く、何回も額を拭う。それに比べ、僕の隣にいるこの人は汗一つかくことなく、だらりと欠伸をかいている。
それは、この神社の神様だから。
あの日偶然、恋岬神社に立ち寄った際、僕は神様と出会った。
普通は神様が人に見えるはずがないけど、何故か僕にだけは見えるらしい。彼いわく、何か似た要素があるのかもしれない、と言っていた。それが何なのか、僕には見当もつかないけど。そもそも、神様と人間だし。
初めて見た時は、正直、戸惑いを隠せなかった。
それでも話していくと、意外と普通の人間みたいで、話というか、空気感というか、そういうのが僕らは合うらしい。気づけば、週に数回は会う関係になっていた。
ぼんやりと空を眺めながら、昼寝をするのが好きらしい。風の音とか、動物たちのさえずりを聞きながら、たまには雨の日なんかも悪くないのだという。おじさんというか、ご年配の方っぽいというか。
でも、そういうの分かるなって思った。
誰かに言うとだいたい笑われるけど、何もない日中は昼寝をしていることが多いから。
もはや僕にとって、一人暮らしを始めて、最初の友だちは神様と言っていいのかもしれない。
「今日はバイトだったのではないか?」
「もうやめたから」
「またか」
眉を顰め、ため息を吐かれる。無理もない。これで彼にバイトをやめた報告をするのは、四回目なのだから。
呆れられても、怒られても仕方がない。
そうやって笑顔になるための準備をしていると、神様は何故か笑みを浮かべ、僕をじっと見た。
「そういうこともある」
唇の片端を上げてにやりと笑っていたけど、すぐに真っ直ぐな眼差しになる。彼が今見ているのは、本殿に続く石の段差だった。
「人間は自由だ。合わなければ、次を探せばいい」
青空のような水色の瞳はまるで、見えない誰かを見据えているようで。
そしてその言葉は、力のこもった、どこか自分自身に言い聞かせているように思えてならなかった。
人間は自由だと、彼は言った。
自由とは、本当に自由なのだろうか。
僕はその自由に、生まれてこの方、縛られ続けているというのに。
でも、彼はそういう意味で言ったのではないことは、感じている。
人間にはたくさんの選択肢がある、ということなんだと思う。そう思うのは、もしかしたら彼自身に、自由、というものがないからかもしれない。
ここ以外で、神様と会ったことがない。
神様だから、この恋岬神社から出られないんだろうか。
そういう意味では、僕は自由だった。
「そうだね、またバイト探してみるよ」
そう言うと、神様はじっと僕を見る。なんだろうと首を傾げると、彼は段差に腰掛け、膝の上で頬杖をつく。
「前から思っていたが、零夜にはやりたいことはないのか? 人間には、好きとか嫌いとか、そういうのがある印象だが」
訝しげにこちらを見上げる彼に、僕もとなりに座る。僕は一つため息を吐き、くしゃくしゃのタバコケースを取り出し、一つ吸った。高校を卒業する前から、付き合いで吸うようになった。普段は吸わない人がいたら、絶対にタバコは出さない。受動喫煙はさせたくないから。ここには神様しかいないから関係なくて、今は何となく吸いたい気分になっていた。
「それは、偏見じゃない? ない人もいるよ」
「君みたいに?」
「そう」
相槌を打ち、また煙を浮かせる。景色が淡く灰色がかって、僕はそれ見て少し心が落ち着く。日向と昼寝は好きだけど、晴天の空の色は苦手なんだと思う。僕には、あまりにも透き通っていて、そう見えてしまう僕は、はみ出し者のように感じてしまうから。
「まあ、気長に探せばいい」
「気長に、か」
やや口角を上がってしまうと、神様はうんうんと頷き、僕の頭を撫でようとする。案の定、触れることはできなくて、彼は苦笑いしてその手を見据える。
「案外、近くにあるかもしれないからな」
ぎゅっと、拳を握りしめる。細めた瞳は、弱々しく儚げだった。
触れることができなかった。
その事実はもしかしたら、彼にとってすごく複雑なことなのかもしれない。
香ばしい匂いが、部屋を満たしていた。
炒めたソーセージやピーマン、玉ねぎに、ケチャップがメインのソースを加える。僕のナポリタンには、隠し味で生クリームが入っていて、少しだけ白っぽい。ゆで汁を入れ、とろみをつけるために乳化し、後は麺と和えて完成。
食べてみるとあまり酸味もなくて、まろやかにできていると思う。パスタもよく絡んで、良い感じだった。
それでも、当たり前だけど店長のナポリタンには足元にも及ばない。
僕はバイトをやめた後、『喫茶店elena』という店がバイトを募集しているのを偶々見つけ、面接をしてみるとすんなり採用してくれた。
とはいえ問題なのはその先で、僕は大学生になってからすぐバイトをやめているということ。働いているのが苦痛で、どうしても続けることができなかった。
それに、人間関係のこともある。
何かと恋愛絡みで巻き込まれることも少なくなく、妬まれて嫌がらせされることもあり、辞めざるを得ない時もあったほど。
でも、夏から働いて冬になった。
僕は『喫茶店elena』で働くことに、やりがいのようなものを感じていた。
アットホームな感じで、たまに変な人も来るけど、基本的にお客さんは良い人ばかり。同じ従業員の人も気さくで、丁寧に教えてくれるから仕事もやりやすかった。
何より、店長がとてもいい人だ。
仕事外のことでも、料理やコーヒーの作り方を聞けば教えてくれて、何より視野が広くて従業員やお客さんのことをとても気にかけている。
加えてパスタやコーヒーは、店長が作ると格別にうまい。
そんなの、みんなから愛されないはずがなかった。
だからこそ不思議なことがある。
それは、店長には奥さんがいないということだった。
「案外、近くにあるかもしれない、か」
日が落ちようとしている夕方。
空の色はオレンジから深いブルーに移り変わり、お客さんも段々と一息つく雰囲気から、夕食のメニューへと切り替わっていく。
ハンバーグやオムライス。中でもパスタは人気で、見渡せば様々なソースが、落ち着いた店内を彩っていた。
バイトの度に、おいしそうだなって思わされる。
いつか、僕も作れるようになる日が来るのだろうか。
まだ始めたばかりのバイトという立ち位置なのに、ふとそんな想像をしてしまった。
『喫茶店elena』は近所にある、特に地元に愛されるお店。
案外、近くにあるかもしれない。
神様のお告げは、案外当たるもんだなと、少し失礼なことを思ってしまった。
彼のおかげで、こうして居場所のようなものを見つけられた。
だからこそ僕は、彼のためにしてあげたいことがある。
それが叶うのは、あの人にもかかっているけど。
「零くん」
「はい、店長」
「金曜日だから関係ないとは思うけれど、明日、お店はお休みになるから」
「何か用事でもあるんですか?」
聞いてみると、店長はやや口角を上げ、がらりと店内を見渡した。
「というより、毎年この日はお休みなんだ」
穏やかに微笑んでいるけど、店内の活気にかき消されるように、声は霞んでいたように感じた。
お休みにするくらいだから、店長にとって重要な日なんだろう。
思えば、彼の友人関係は働いているうちに少し見たことはあったけど、家族関係のことは一切聞かない。
でも、余計な詮索も良くない気がする。僕自身も、絶対にされたくないことだし。それにお客さんがたくさん来てしまって、会話を遮られてしまった。
いつか、店長のことを知れる日が来たらいいな。
そう思うのはたしかで、昨年までだったら想像もできない気持ちだった。
それからは会社員や学生、親子連れなど、たくさんのお客さんでいっぱいになった後、ようやく店内が落ち着きを見せ始めた頃。
多くの料理を作ってきた店長は疲れた顔一つ見せず、食器を洗浄する僕の隣で、丁寧かつきれいに拭いていた。
「そういえば、この前パスタの作り方を教わりたいと言っていたね?」
「はい」
「もしよければ、この後でも教えようか?」
「いいんですか、ぜひ!」
柄にもなく興奮して声が大きくなってしまうと、店長はとんとんと人差し指を口に当てる。僕はかあっと顔が熱くなりつつ、すみませんと謝った。
「でも、こんな簡単に作り方教えてもいいんですか? 僕は、ただのバイトですし」
「たしかに、営業上は良くないことなのかもしれない」
僕から見たら十分きれいなワイングラスも、店長は全体を見回し、また布を当てて拭き取る。店長は、一つの水滴や微妙な曇りも許さない。
それは、仕事だからということもあるのかもしれない。
「だけどね、幸せなひと時よりも優先できるものを、私は知らないから」
ゆるりと目元を細め、店内にいるお客さんたちを見据える。まばらになってきたからこそ、お客さんの顔がよく見える。おいしそうにオムライスを頬張る子どもや、それを見守りながらコーヒーを飲む母親。その側に座るカップルも、おいしそうにパスタを食べながら、仲睦まじく会話をしている。
たしかにこの景色は、幸せ、という言葉以外では例えようがない気がした。
ちらりと、店長はこちらを向き、何か納得したように二つ頷く。首を傾げると、彼はくすりと微笑み、また客席の方へと目を向けた。
「未来ある君の願いを邪魔するなんてこと、とても私にはできないよ」
僕は肩を強張らせ、少し俯いてしまう。
店長はお客さんだけではなく、僕たち従業員のことまで考えてくれている。知っていたけど、改めてすごい人だなって感心してしまった。
「すごいですね、店長は。誰かのために、そこまで考えられるなんて」
「いいや、私自身のためでもあるよ」
左右に首を振る彼に、僕はつい首を傾げてしまう。店長はピカピカに磨いたグラスに満足げに笑みを浮かべ、ぽんぽんと僕の肩を叩いた。
「僕と関わった人の幸せは、私も幸せな気持ちになれるからね」
当たり前のように、店長は言葉にする。
でも僕は、それがどれだけ難しいかを知っている。
幸せにしたいと思っても、幸せにすることは難しい。ましてや、それで自分自身は幸せに感じることなんて、僕には無理なような気がしてならない。
僕は、前科持ちだ。
幸せにしなければいけない人を、ひどく傷つけてしまった。
だから僕は、誰かを幸せにしたいだなんて、おこがましいことを思ってはいけない。
お客さんに声をかけられ、オーダーを取ろうとする。でも、つい顔をじっと見てしまう。見覚えのある顔だった。以前見た時は髪がブラウンだったけど、今は深いグレーカラーで、クール系の美人な女性。たしか、晴さんの友だちの。
「京ちゃんさん、ですか?」
「そうだけど、京花でいいよ」
「じゃあ、京花さんで。京花さんも、常連さんだったんですね」
「晴にオススメされてからかな。あの子、こういう店好きだから」
「あー、こういうレトロなお店好きそうですよね」
「へぇ。よく分かってるじゃん」
どこか得意げに唇の片端を上げる彼女に、ははっと僕はとりあえず口角を上げる。どうやら僕は、京花さんのことが少し苦手っぽい。だから注文だけ取って早く去ろうと思ったけど、彼女の一言に引き留められる。
「晴のこと、どう思ってる?」
「どうとは?」
「分かってて聞き返してるでしょ?」
あえて聞き返してみて誤魔化そうと思ったけど、彼女は足を組み、頬杖を付きながら僕を見上げる。やはり、僕はこの人が苦手のようだ。
「友達、みたいなものです」
「恋愛感情はないの?」
ど直球な質問に少しうろたえそうになるけど、咳払い一つ吐き、どうにか彼女から目をそらさないようにする。
「苦手なんですよ。好意を向けられても、それ以上のものを返すことができないので」
言い切って、僕は胸の内でため息が零れる。
いったい、何を言っているのか。
ほぼ初対面の相手に寒いことを言ったところで、うざいだけなのに。それか、何言ってんのって笑われるだけ。むしろ、後者であってくれた方がありがたい。
けど。
「一々返す必要ないでしょ」
彼女は横髪を耳にかけ、すでに注文してあったルイボスティーを静かに飲む。強い姿勢とは裏腹に、とても綺麗な飲み方をするなと思った。
あまりにも真っ直ぐな言葉に、僕は口を噤み、数回瞬きをしてしまう。
「だって、したくてしてることなんだから……きっとお互いに愛があれば、それでいいんだから」
彼女は無意識なのか、お腹に手を当てる。その眼差しは僕に当てる言葉とは違って、愛おしそうに柔らかく笑んでいた。
「もしかして、お子さんができたんですか?」
「うん、つい数週間前だけど」
僕はおめでとうございますとお祝いし、京花さんは少し照れくさそうにありがとうと言う。そこで僕は、彼女がルイボスティーを飲んでいる意味を知った。
「だから、ルイボスティーなんですね」
「そう、ノンカフェインだから。飲みすぎも良くないらしいけど」
「お子さん、楽しみですね」
そう言うと、京花さんの凛とした表情が崩れ、幸せの溢れ出た笑顔になる。
「いっぱい愛情を注ぎたい。この子に、愛してることを伝えたいから」
まだお腹は目立たないけど、たしかにそこにある命に、語りかけるように声をかける。撫でる手は、子どもの頭に触れるように優しく、温かい。
愛してることを伝えたくて、愛情を注ぐ。
テレビとかでぼんやりと聞いていれば、当たり前のように聞こえてくるけど、目の前の母という存在を前にすると、胸に訴えかけてくる重みを感じずにはいられない。
母親は、とても偉大だ。
母さんも、綾さんも、こんな気持ちだったんだろうか。
それなのに僕は、本当にどうしようもないと思った。
注がれていたはずの愛を、無下にしてしまったのだから。
「時には、言葉にしなきゃいけないこともあるんだよ?」
小首を傾げると、さらりと長い髪が揺れた。すると京花さんはそれだけを言い、注文をせずにそのままお会計をして帰ってしまった。それなら、どうして僕のことを呼んだのだろう。よく分からない人だ。
京花さんはかっこいい人だと思った。
立ち振る舞いや背格好、言葉選びも全てが真っ直ぐな人で、こういうのを憧れの女性と言うのだろう。
でもそれと同時に彼女自身と、堂々としたファッションが、どこか不安定に感じてしまうのは、僕だけなんだろうか。
閉店一時間前で、そろそろお客さんも来なくなり、裏では閉店作業が同時進行される時間帯。
店の方は料理を作るのを含め、店長だけでも回ってしまうから、僕は裏方に行くことになる。だから客席の方をあまり気にすることはないけれど、店長のある一言に、僕はおもわず振り向いてしまった。
「いらっしゃい、山下さん」
「こんばんは、店長」
顔を覗かすと、そこにはたしかに晴さんの姿があって、僕は二人の下へ向かった。
「晴さん、木曜日に来るの珍しいですね」
「うん、少し用があって」
「そうなんですね」
用ってなんだろう。そう考えていると、晴さんは僕の方を見て小首を傾げた。
「今日、何時に終わる」
「え、閉店までですけど」
「じゃあ、待ってるね」
そこで用があるというのは、僕のことなのだと知る。はいと二つ返事をし、僕は仕事場に戻る。
けっきょく、用というのは何だったのか。
分からないままになってしまったけど、後で分かることかと特に気にはしなかった。その後の仕事は、どこか軽やかに動けたような気がした。
からんからん。
ドアベルをくぐり、僕たちは寒空の下を歩く。本来、従業員は裏側から出入りするけど、今回は晴さんも一緒ということもあって、正面から店を後にした。今日、本当は店長にパスタの作り方を教えてもらうはずだったけど、晴さんがいるからと気を利かせてまた今度にしてもらえた。本当にいい人だなと、改めて思う。
僕たちは隣り合いながら、他愛もない話しをした。最近一段と寒くなって来たとか、会社は馬鹿みたいに乾燥していて、喉が痛いとか。
その時に、京花さんの妊娠を知ったことを話すと、晴は目をかっぴらいて驚いていて、つい声を出して笑ってしまった。どうやら京花さんにまだ知らされていなかったらしく、「京ちゃんはそういうところあるから」と苦笑いをしていて、僕は再び笑ってしまった。
恋岬神社に辿り着く。
でも何か変わった様子もなく、彼女はいつも通りだった。わざわざ会いに来たのだから、何かしらあるかと思ったのに。
いっこうにそんな気配が見えず、とうとう僕は彼女に聞いていることにした。
「何かあったんじゃないですか?」
晴さんは僕の問いに、俯き眉を顰める。
「そうだね……でも、もう大丈夫になったかな」
ははっと笑顔で言い、僕は頷いた。すると彼女は僕の目をしっかりと見つめながら、一段と笑みを深めた。
「もう、確かめられたから」
はっきりと言い、彼女は夜空に浮かぶ月を見上げる。澄んだ空気は、妙に月明かりを青くして、彼女の笑顔を美しく彩る。
彼女の顔は、とても晴れやかだった。
まるで雲一つかかっていない、今宵の月みたいに。
「きれいですね」
「そうだね」
僕をちらりと見て、再び夜空へと視線を向ける。でも僕はこっそりと、その横顔を見つめていた。
晴さんは、少し勘違いしている。
カワウソだろうか。顔も小さくて、笑った時にクシャっと細くなる目元は、ついかわいらしいなと思ってしまう。
抱きしめたいな、と思ってしまう。
彼女の、僕よりも一回り細い体を、ぎゅっと僕の腕の中で。
こんな気持ち、初めてだった。
今まで抱きしめてあげたいと感じたことはあっても、僕から抱きしめたいと思ったことは一度もなかった。
なんだろう、これ。
僕は、おかしくなってしまったのだろうか。
言葉にしなきゃいけない、か。
京子さんの言葉を思い出し、晴さんの顔に目を据える。彼女もこっちを向くと、笑いかけてくれて、気づけば僕も笑顔になる。
手を、彼女の小さく細い手に伸ばしそうになるけど、ぎゅっと強く拳を握り、後ろに隠す。
嘘だった。
この前のことだって、冗談なんかじゃなかった。
本当は彼女に触れたくて、現に、その手を触れようとしてしまった。
でも、そんなことがあってはいけない。
彼女はそんなことを望んではいなくて、変わらず、金曜日に会うだけの友だちみたいな関係でいたいと思っているはず。
だから僕が何か行動してしまえば、このひと時を壊してしまうことになる。
また、あの時のように傷つけてしまう。
それだけは、もう、絶対にしたくなかった。
しばらく話し込んだ後、僕は晴さんを近所まで送った。いつもならそのまま家に帰るけど、今日は何となく、また恋岬神社に戻ってきた。
「今日も、出てこなくてよかったの?」
「無理に決まっているだろう」
そろりと出てきたこの神社の神様は、もはや幽霊みたいになっていて、僕はつい小さく笑ってしまった。
「心残りなんでしょ? 晴さんのこと」
「それならもう、元気にやっていることは知れているから問題ない」
腕を組み、木に寄りかかりながら言う。僕は一つため息を吐いてしまう。どう見ても強がっているようにしか見えなかった。
僕が晴さんと出会った日、神様の驚いた顔は忘れられない。見えているはずがないのに、彼は一目散に木の陰に隠れてしまった。あまりにも変な挙動をするものだから後々問い詰めてみると、どうやら晴さんが高校生の時、神様は知り合っていたらしい。
しかし数年後には疎遠になってしまった。
それは神様自ら、彼女の前に姿を現さなくなったから。
その理由は、神様が人間に対して抱いてはいけない感情を抱いてしまったから。
神様の心残りというのは、その後も晴さんが元気にしているかということだった。
それから僕と晴さんが会うたびに隠れて、彼女の様子を見ているらしい。見えないからよかったものの、完全に見た目はストーカーそのものだった。
でも、気持ちは分かる気がする。
僕も傷つけた人ともう一度会えるかと言われれば、きっとできないだろうから。
実際、藍花とは一度も会えていない。
つくづく、僕らは似た者どうしだなって思わされた。
彼女に対して、抱いてしまった感情も含め。
「それより、零夜こそいいのか?」
「何が?」
「晴に想いを告げなくて」
神様は落ち葉を拾い上げ、離せばひらりと透明な風に乗って夜空を舞う。人に触れることはできなくても、それ以外に干渉することはできるようだ。
「何のこと?」
ちらりとこちらを見た神様に、僕は笑顔を作って返す。彼はそんな僕に目を凝らして、にぃっと口角を上げて近づいてくる。
「ワタシは、仮にも恋愛の神様なんだがな」
両腕を組み、下から覗き込んでくる彼の表情は仰々しく意地悪い。白状させるために恋愛の神様というワードを使ったのかもしれないけど、もしかしたら春さんと過ごしている姿を見れば、一目瞭然なのかもしれない。実際、京花さんにも感づかれていそうだから。
「いいんだよ、そういうのは」
ため息を吐き、そっぽを向く。ぼんやりと、いつも晴さんと座っている石段を見つめる。
彼女はいつも僕に、何気ないことを話す。それはたぶん、彼女が僕のこと信用や、親しみを持ってくれているからだと思いたい。
でも逆に、僕のことをあまり聞いて来ようとはしない。おそらく、僕自身にはあまり興味はないから。
彼女は、僕との何気ない夜のひと時を望んでいる。
それ以上に深まりを、求めてはいない。
だからこの先、晴さんが別の誰かに恋をして、めでたく付き合ったり結婚したり、幸せになってくれればいい。
僕のことを、必要としないくらいに。
この時までは、そう思っていた。
金曜日の夜。
この日のことを、僕はあまり覚えていない。
僕は電車に乗り、買い物に来ていた。せっかく店長にレシピを教えてもらえるのなら、もう少しいい料理器具を揃えておきたいと思って。
晴さんが、男性とレストランから出てくるのが見える。
短髪の前髪をアップにしていて、高身長イケメンゆえか、街中ですれ違ってきたサラリーマンとは比べものにならないくらいスーツとチェスターコートが様になっていた。
彼女が昨夜、あんなにも晴れやかな表情をしていたのは、そういうことだったんだ。
晴さんと目が合う前に、すぐその場を去った。
横目に微笑む晴さんの顔が見えたけど、見て見ぬふりをした。
僕の心は揺れ動き、血の気が引いていくのが分かって、それなのに異様に胸の辺りが熱く、痛くて苦しい。
胸が、張り裂けそうだった。
そこに手を当て、僕は深呼吸をする。
これは、僕の気持ちじゃない。
時が過ぎれば、忘れさせてくれる。気のせいだって、思わせてくれる。
そう、何回だって言い聞かせた。