懐かない猫の一途な恋

3 空に咲く花(前編)

 前期の期末テストが終わって、夏休み。
 講義はないけれど、私はほとんど毎日大学に通っていた。
 すれ違う先輩方に挨拶をしながら、私はサークル部屋に向かっていた。
 先月から、私は笹本に誘われてアースという演劇サークルに入った。
――絵、いっぱい描けて楽しいよ。手が足らないから大歓迎。
 アースは戦前から続く有名なサークルで役者の競争が激しい反面、裏方が不足しているらしい。笹本はそこで専属大道具係として背景画を描いているらしかった。
 入部はためらった。雨の日の笹本の一言がひっかかっていて、また二人きりになったらどうしようとも思った。
 でもそこに笹本がいると思うと、私は今日もサークルに来てしまう。
「おはよう、和泉」
 倉庫代わりに使っている奥の部屋に入ると、笹本はもう来ていた。脚立を使って背景画にペンキで色をつけていた。
「さっそくだけど、その辺から色塗って」
 私は図面を見ながら下の方の色塗りを始める。
 サークルの大多数は講堂や体育館で演劇の練習をしているから、部屋には笹本と私しかいない。
「今日は何時くらいまでいられそう?」
「昨日と同じ。夕食くらいまでは」
「そっか。俺も今日は一日いけるから一緒にがんばろう」
 室内には、時々笹本と交わす言葉くらい。窓の外は木々で覆われていて、窓を閉めていても賑やかに蝉の声が聞こえていた。
「和泉、そこはもうちょっと色濃くして。客席から見ると淡く見えるから」
「わかった」
 シーン設定は決まっているけど、細かい絵柄は大道具係に任せられている。この絵も笹本と私で相談して図案を作ったものだった。
 絵を描くのはもちろん嬉しい。けど、笹本とほとんど毎日会えることはもっと嬉しいと思っている私がいる。
「よし、そろそろ休憩」
 笹本は腰に手を当ててにっこりと笑う。
 あの日以来こうして二人きりになるのは数えきれなくなったけど、私たちはあの日のことに一度も触れなかった。
 黙々と作業を続けると時間は飛ぶように過ぎていって、あっという間に昼近くになっている。
「うちのサークルは演技については熱心だけど、裏方にはあんまり力が入ってないんだよな」
 ひと段落ついて話しかけてきた笹本に、私もうなずく。
「衣装も音響も委託だもんね。デザイン部とか音楽サークルとかに」
 笹本は伸びをしながら返した。
「まあ専門技術を持ってるサークルに任せた方がいいものはできるかもしれないけどな。演劇は役者だけじゃなくて、裏方も合わせて一つの舞台を作るものだと思う」
 ふと笹本は苦笑する。
「なんて言ってると、役者でもない奴が何言ってるんだって馬鹿にされるだろうけど。伊吹に」
 一度だけ笹本が舞台に立つのを見た。たまたまその日不在にしている役者が多くて、笹本は主役の親友役を代役でつとめた。
 笹本、演技上手だ。私が率直に抱いた感想はそうだった。
 裏方だけじゃなくて、役者もできそうなのに。思わず幕の裏から食い入るように見ていたら、変なことが起こった。
 笹本はくすっと笑って私を見る。
「和泉が見てたら意地でも俺より目立つだろうし」
 あの冷たい長身の嫌な男、伊吹は演技だけは上手かった。笹本と一緒の舞台で悪役を見事に演じきって、笹本以上の喝采を受けたのだ。
 笑いを含んだ声に、私は顔を上げて笹本を見る。
「笹本」
「うん?」
「あいつ、訳がわからない」
 顔を笹本に向けながらも目を逸らして、私は眉を寄せる。
「和泉粘るなぁ。伊吹はあれだけはっきり態度で言ってるのに」
 くすくすと笑って、笹本は言葉を落とす。
「……和泉が好きなんだよ」
 扉が開く音が聞こえて、私は先輩だと思いながら振り返る。
「あら、そろそろ完成ね」
「藤原さん」
 入ってきたのはサークルの一年生の藤原(ふじわら)さんだった。華やかな美人で、あまり話すのが得意でない私にも声をかけてくれる、気さくな子だ。
「……と」
「先輩がそろそろ昼だから下りてくるようにと」
 伊吹も一緒だった。すぐ側に立って、威圧感のある長身から私を見下ろしていた。
 私はぷいと顔を背けて先に歩こうとするけど、伊吹とは歩幅が違いすぎてすぐに追いつかれる。
 諦めて速度を緩めると、伊吹は隣に並んだ。特に何かを言ってくることもない。ただ、視線を感じる。
「今はどこのバイトしてるの?」
 藤原さんは笹本と、ゆっくり後ろからついてくる。
「コンビニと居酒屋。やっぱ深夜の方が時給いいんだよね」
「相変わらず崩れた生活してるわね、優希」
 彼女は笹本と子どもの頃からの付き合いらしくて、他の女の子に比べても親しげだ。
 もちろん私にとっては葉月が一番だけど、藤原さんは素直にかわいいと思う。愛想もいいし、サークルの男の子たちに人気なのもわかる。
「あれ、心配してくれてる?」
「まさか。過労してかっこ悪くなって、彼女に嫌われなさい」
「そうくるか」
 でも、笹本と親しく話せるのはうらやましいな。そう思いながら、私はずっと後ろに意識を向けていた。
「……呼ばないんだな」
 笹本たちからだいぶ離れたところで、伊吹が低い声で言ってきた。唐突だったから、私はそれが私に向けられたとは気付かなかった。
「下の名前で」
「失礼じゃないか」
「女子はけっこう呼んでるぞ」
 私も、彼がサークルの女の子たちにゆうちゃんとか優希君とか呼ばれているのは知っている。
「私は笹本でいい」
「ふうん」
 名前で呼ぶのは勇気が要る。男の子どころか女の子と親しくなったこともほとんどない私には、とてもそんなことはできない。
 どうしてこいつは私が気にしていることを言うんだろう。私が憮然としながら顔を上げると、伊吹と目が合った。
「ま、そうだな」
 口の端だけ上げて、伊吹はくっと笑う。
「彼女がいるって公言しながらいろんな女に愛想を振りまく奴に、好意を持つだけ損ってもんだ」
「笹本は優しいんだ」
「それは優しいとは言わない」
 突っかかる私を愉快そうに見下ろしながら、伊吹は揶揄するように言う。
「八方美人って言うんだよ。ああ、浮気の方が近いか?」
 私は笹本を馬鹿にされたことに、目を怒らせて言い捨てる。
「人を貶めることしか頭にないのか」
「お前は笹本を持ち上げることしか頭にないな」
「友達なんだから庇うのは当たり前だろ」
 私は足を速めて先に進む。けれどやはり簡単に追いつかれる。
「なんでついてくるんだ」
「行き先が同じだろ」
「ならもっと後ろを歩け」
「笹本とか? 冗談じゃない」
「じゃあ一人で歩け」
 顔を背ける私に、伊吹はふいに一瞬黙る。
「和泉」
 こうなったら無視しようと私が答えずにいたら、伊吹はぽつりと言った。
「昼飯食いに行こう、一緒に」
「なんでだ」
 夏休みに入ってから何度か言われた言葉に、私は怪訝な顔をして返す。
「取り巻きの女の子とでも行ってこればいいじゃないか」
 伊吹は女の子たちに大人気だ。確かに整った顔立ちをしているし、演技が抜群にうまい。性格は悪いけど。
「俺はお前を誘いたいんだ」
「だから、なんでだ」
「そんなこと、理由は一つだろ」
 私をからかいたいのか。絵ばっかり描いている変な子だと、昔から男の子にいじめられてきたから慣れている。
「ふうん。私が好きなのか」
 けれど意地悪心を出して、私はそう言ってみた。
 そんなはずはないとわかっている。私は無愛想だし、やせっぽっちで顔立ちも平凡。かわいくない自覚くらいある。
 伊吹は虚をつかれたように灰色の目を軽く見開いて黙った。
「そう言われたくないなら私に絡むな」
 私を好きになる男の子なんて、いるわけがないのだ。
「男の子は葉月や藤原さんみたいな子が好きだって、わかってるんだから」
 何気なく言い放つと、伊吹は眉をひそめた。
「俺を笹本と一緒にするなよ」
 怒ったように伊吹は少し早口で言う。
「俺を嫌うなら、ちゃんと俺のこと知ってから嫌え」
 伊吹はそう告げて、不機嫌そうに目を細めた。
 伊吹は嫌なことばかり言う。ちっとも優しくない。私の理想の男性像である伯父から完全にかけ離れた、関わり合いになりたくない男だ。
「日曜日は? 夏祭りがあるだろ」
「お前となんて、嫌に決まってる」
 だけど何度冷たくしても私に話しかけてくる、変な奴だった。

 
 
 
 

 日曜日には、家の近くで夏祭りがある。私は毎年、それに葉月と一緒に出かけていた。物心つく前から続く恒例行事だ。
「いつも私まで揃えてもらってすみません」
 その祭りのための浴衣を、伯父は毎年私と葉月に買ってくれることになっていた。
 祭りまで二日に迫った金曜日の夜、私は伯父の家で、葉月と一緒に浴衣を見ていた。
「感謝してるのはこっちだよ。独身男の道楽につきあってくれて」
「いえ、そんな。ありがとうございます。今年は雅人さんも一緒に来られそうですか?」
 幼い頃は伯父が私たちを連れて、三人でいろんな所に出かけたものだ。動物園、水族館、植物園、美術館。数えてもきりがない。
「いや、保護者が必要な年でもないからね。二人で楽しんでおいで」
 伯父は私と仲良くしてくれる葉月をかわいがっていて、葉月も伯父に懐いていた。だから成長した今でも、葉月は伯父の家を訪ねて私と一緒に過ごすことが多い。
 外は夏の日差しが照りつける。けれど、この家の中の住人には暑苦しい様子などみじんもない。
 伯父は涼やかな青いカッターシャツを着て、優雅に紅茶を飲んでいる。
 その向かい側のソファーで、葉月は軽やかな笑い声を立てながら伯父と話している。
 そして私は葉月の背中にもたれながら、スケッチブックに絵を描いている。これがいつもの定位置で、心から安らげる私の居場所だった。
「そういえば葉月ちゃん、今度ドラマに出るんだってね」
「はい。あ、今日特集の雑誌持ってきたんですけど」
「どれどれ」
 子役時代から葉月を応援してきた伯父は、葉月が開いたページを興味深そうに見下ろす。
「彼が相手役の俳優さん?」
「そうなんです。彼と共演できるって知ってすごく驚きました」
「ああ、有名だね。伊吹竜也君」
 ……伊吹?
 私はスケッチブックに走らせる手を止めた。
「へぇ。写真で見てもなかなかいい男だね」
 私は立ちあがって、感心したように呟く伯父の横から雑誌を覗き込んだ。
 見た者に冷たい印象を抱かせる怜悧な顔立ちには覚えがあった。
「あいつだ」
 灰色がかった鋭い目を雑誌の上から見て、私はぼそりと呟く。それに、伯父と葉月は目を上げて私を見た。
「伊吹。サークルで一緒なの。嫌な奴」
「どんな風に?」
 伯父の問いかけに、私は眉を寄せる。
「私に嫌なことばっかり言う」
「嫌なことって?」
 今度は葉月が問いかけてくる。私は少し考えたけどうまくまとまらなくて、覚えていることを口にした。
「一緒に昼ごはんを食べようとか」
「別に悪いことじゃないんじゃない?」
「夏祭りに行こうとか」
「二人で?」
「うん」
「あら。私、伊吹君ファンになっちゃうかも」
 葉月がころころと笑うので、私は顔をしかめる。
「なんで?」
「れいちゃんの良さがわかる男ってことだもの。いい目してるじゃない」
「そんなことない。あいつは私をからかって」
「それだったら許せないな」
 伯父は少し目を細めて雑誌に視線を落とす。
「まあそうじゃなくても私は気にいらないが」
「雅人さんは、れいちゃんに寄って来る男の子はみんな気にいらないでしょう」
 くすくすと笑う葉月に、伯父は降参とばかりに苦笑を浮かべる。
「そりゃあね。娘を持つ父親なら誰だってそう思うんじゃないかな」
「でも受け入れなきゃ。それを乗り越えてくるのが彼氏ってものですよ」
「ちょっと、葉月」
 私はむくれながら葉月に詰め寄る。
「彼氏とか絶対ない。あいつは嫌な奴。それだけだよ」
 その時、私の携帯が鳴った。私はバッグの中からそれを取り出して、着信先を見る。
 サークルの固定電話からだった。私は先輩か……もしかしたら笹本かもしれないと思いながら通話に出る。
「はい。和泉です」
 部屋の隅に向かいながら何気なく言ったら、笹本や伯父より遥かに低い声が返ってきた。
「伊吹だ」
 瞬間、私は通話を切ろうとボタンを探した。けれど用件も聞かずに切るのは大人げないと思って何とか踏みとどまる。
「何か用?」
「明後日の夏祭りのことだが」
「サークルと関係ないことなら固定電話を使うな、伊吹」
「お前、たぶん知らない番号から電話に出ない性質だろ」
 私は咄嗟に言葉が返せなかった。
「で、二人が嫌なら、友達も一緒で行かないか? 俺の方は兄貴でも連れていくから」
「私は友達と行くんだ。お前となんて行く気ない」
「せめて友達に訊いてみたらどうだ? 俺は自分が見世物になることは知ってる。お前の友達なら多少は愛想よくするぞ」
「その自信はどこから来るんだ」
「事実からだ」
 抉るような低音ではっきりと言い切る。
 思わず絶句した私の手から、携帯が抜けた。
「もしもし、れいちゃんの友達の葉月ですけど。伊吹君?」
 見上げると、葉月が私の頭の上に顎を置きながら楽しそうに携帯を持っていた。
「ああ、一緒にね……。いいですよ、私は」
「葉月!」
 あっさりと承諾しそうになった葉月から携帯を奪い返して、私は通話口に言葉を投げつける。
「とにかく、お前となんか行かない!」
 通話を切って電源まで落とすと、私は葉月を睨みつけて言う。
「なんで了解しようとしたの、葉月」
「だって伊吹君、一生懸命じゃない。あのプライドの高い彼が、友達と一緒でもいいかられいちゃんと行きたいって言ってるのよ?」
「葉月は……」
 私は少し肩を落とす。
「私だけじゃ楽しくないの……?」
 かっこいい伯父も華やかな男の子も一緒じゃないし、いい加減幼馴染とだけの夏祭りも飽きてきたのだろうか。
 葉月は私の肩を抱いてぽんぽんと叩いた。
「まさか。そんなわけないじゃない」
 葉月は私の首に腕を回して、後ろから抱きついた。
「ごめんね。からかいすぎた」
 葉月の意地悪には少しも悪意がないことを知っているから、私はすぐに許せる。
 心地よい安息の空間に訪れた一瞬の波紋も、固定席の葉月の隣に戻ればすぐに元に戻った。
 私は葉月の背中の温もりを感じながら、学校に咲くひまわりをスケッチブックに写し取っていた。







 夏祭りの前日の土曜日のことだった。
 私はサークルの大道具部屋にスケッチブックを置いてきたことを思い出して、一旦帰りかけたところで引き返した。
「あった」
 カーテンが閉まっていて少し視界は悪いけれど電気をつけるほどでもない。そんな薄闇の中でスケッチブックを見つけ出して、私はそれをバッグに仕舞う。
「……あ」
 そこで、部屋の隅で笹本が寝転がっていることに気付いた。
「また寝てる」
 サークルをめいっぱいやりながら深夜のバイトに励んでいるらしい笹本は、時々こうして部屋の隅で寝ていることがあった。
 私はそういう時にいつもするように、何かの小道具だったらしいタオルケットを笹本にかけることにしていた。
 枕元に座って、私はタオルケットをかけようとして手を止める。
 睫毛が長いし、色も白い方だと思う。けど骨格や眉の辺りが女の子とは違う。中性的ではあるけど、やっぱり男の子だ。
 私がずっと嫌いだったはずの「男の子」。でも男の子であるはずの笹本は少しも嫌いじゃない。その単純で矛盾した命題に、私は未だに困惑する。
 蝉の音も静まってきた宵の刻だった。
 私は少しの間笹本の顔をじっとみつめたまま動かなかった。
 はっと気づいて私はタオルケットをかけようと屈みこむ。
 そこで、ぐいと引っ張られた。
「……おかえり」
 一瞬の出来事だった。笹本は私の首にぐるりと腕を回して抱きついていた。
「早かったね。ねえ、聞いてよ。今日俺さ……」
 甘えるような声を出して、笹本は楽しそうに言ってくる。
 だけど私は目を白黒させていた。笹本の体温が顔に直接触れて、声がいつもよりずっと近くで聞こえる。
 そして笹本の力は思っていたよりずっと強くて、体を起こそうにもびくりとも動かなかったのだ。
「笹本、痛い」
 私がぼそりと呟くと、笹本は言葉を止める。
「え?」
 腕を少し緩めて私を覗き込んで、そこでばっと飛び退いた。
「い、和泉! うわごめん!」
 早口で一気に言って、笹本は頭を下げる。
「仕方ないよ。疲れてたみたいだし、暗かったしね」
 私も少し早口になりながら言葉を返すと、笹本は頭をさらに低くしてついに床につけた。
「どうしよう……恥ずかしくて死にそう」
 笹本は頭を両手でくしゃくしゃにしながらうめくように呟く。
「……叔母さんなんだ」
「叔母さん? 彼女じゃなくて?」
「彼女にこんな恥ずかしいこと言わない」
 笹本は焦ったように言ってから、しまったというようにまた顔を伏せる。
「うー……うん。俺とずっと一緒に暮らしてきた叔母さん、に間違えた」
 意外な言葉に私が目を瞬かせると、笹本は顔を手で覆いながら恥ずかしそうに頷く。
「今は別に暮らしてるけど。子どもの頃は、叔母さんと結婚するみたいなことけっこう言ってて。あー……さっきみたいなこと、よくしてた」
「そうなんだ」
「呆れたよね」
 私は首を傾げる。
「なんで?」
「だって俺、マザコンのガキじゃん」
 笹本は深くため息をつく。
「こんなんだから、彼女にも愛想つかされてるんだろうな……」
「はーちゃんに?」
 私の言葉に、笹本は目を上げて首を横に振る。
「いや、彼女ははーちゃんに似てるってだけで」
「笹本の彼女は葉月……ちゃんだよ」
 私ははっきりと言い切る。
「私、本人を知ってるからわかるんだ」
 たった一度見せてもらった写真であっても、私が葉月を見間違えるはずがない。幼い頃からみつめてきた、葉月なのだから。
 自信を持って私が頷くと、笹本は少し黙った後苦笑した。
「参ったなぁ。うん、確かに本人なんだ」
 笹本は困ったようにちょっと眉を寄せた。
「俺と付き合ってること、周りに知られたくないらしくて。写真も見せるなって言われてるんだけどね。でも隠されると、かえって反抗心もわいて」
 笹本は照れたように笑ってから、頭を押さえた。
「……葉月には、他に好きな男がいるみたいなんだ」
「え?」
 笹本は聞いたこともないしぼんだ声で言った。
「仕方ない。俺、釣り合ってないから」
「どうして?」
「顔とか地味だし、背も低いし、子どもの頃一緒の劇団にいただけで、今は葉月の方がずっとまぶしい世界にいるし」
 言いながら落ち込んできたようで、笹本は目をかげらせる。
「伊吹みたいな男が、葉月には合ってる。あいつを見るたびにそう思うんだ」
「やめて!」
 私はすごい勢いで首を横に振った。
「絶対嫌。葉月にあんなの掛け合わせないで」
「掛け合わせ……って」
「笹本の方が絶対いい」
 しかめ面で私は笹本に言う。
「笹本の方がかっこいいよ。笹本の方が優しい。楽しい。きっと葉月だってそう思ってる」
 笹本は苦笑して、目を押さえた。
「和泉はまったく……」
 小さく呟いてから、笹本はにこりといつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「ううん、ありがとう。ちょっと元気出た」
「そっか。よかった」
 私は笑い返して言う。
「葉月を大事にして、笹本。できるなら叔母さんより好きになって」
 笹本は目を細めて少し黙る。
「だよな。この年で叔母さんが大好きなんておかしいよな、俺」
「そんなに変かな。私だって……」
 私は焦って、よく考えないまま笹本の首に腕を回していた。
「いつも伯父さんに、こうやって」
 ぎゅっと笹本がやったように抱きしめたら、笹本が息を呑む気配がした。
「あ、ごめ……」
 自分がしたことに遅れて気づいて腕をほどこうとしたら、扉が開く音が聞こえた。
 振り向くと、長身痩躯から伊吹がこちらを見下ろしていた。
 扉が閉まって、沈黙が少しの間あった。
「何やってんだ、お前ら」
 扉が再び開いて、抑えた声で伊吹が言う。けれどその目つきは射抜くように鋭かった。
「大した意味はなくて……」
 彼女がいる笹本に変な噂をたてられたらいけないと、咄嗟に私が言いわけしようとしたら、あろうことか笹本は私を引き寄せていた。
「え」
「プレゼントもらったんだ。俺、誕生日だから」
 次の瞬間、私は笹本の腕の中に収まっていた。頭の上に、笹本の体温を感じた。
「いいだろ、伊吹?」
 悪戯っぽく首を傾けた笹本を伊吹は腹立たしげに睨みつけて、踵を返す。
「俺も大人げないね」
 伊吹の足音が遠ざかるのを聞きながら、笹本は腕をほどく。
「伊吹を見ると反射的に意地悪したくなる」
 そう言ってから、笹本はくすりと笑う。
「でも和泉にも意地悪したくなったんだ」
 笹本は私から体を離して付け加える。
「大丈夫。伊吹は噂とか流すタイプじゃないから」
「それは、うん……」
 私は動悸の収まらない胸をおさえながら、笹本の顔も見れずに俯く。
「そうだな。言っておくか迷うけど、言うか」
 一瞬、笹本の声がいつもの数倍低く感じた。
「……俺も男なんだってわかってる?」
 私が思わず息を呑んで顔を上げた。
「なんて、ごめんね。突然変なことしちゃって」
 だけどそこにあったのは、いつもの笹本の穏やかで優しげな顔。
「和泉も今日、誕生日だよね」
 いつ話したっけ。そう疑問に思って首を傾げたら、笹本は私の手にクッキーの箱を落とした。
「で、これはささやかながらお祝い。誕生日おめでとう、和泉」
 笹本は立ち上がって時計を見下ろす。
「うわ、バイト遅れる」
 私は顔を上げて、すっかり闇に沈んだ部屋の中で笹本を見上げる。
 たぶん私は、この人のことが好きなんだろう。
 気づかなかった方がよかったのかもしれないけど、そう思った。
 
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