懐かない猫の一途な恋

4 紅葉のうつろい(前編)

 十月は、草木が鮮やかに染まる秋の盛り。
 花が主役の春とは対照的な、木の葉の季節だ。深みを帯びた葉の緑、金色の銀杏、そして真っ赤な紅葉が静かな美しさを競う。
 サークル部屋の窓の外の紅葉が、日に日に色づいていくのがわかる。焼けつくような赤に染まって……時が来たら、落ちていくのだろう。
「やっぱり四人いるとだいぶ違うよな」
 後期に入ってから、サークルの大道具には、姉妹サークル「ヘイズ」から九瀬(くぜ)君と輪島(わじま)さんという二人が手伝いにきてくれるようになった。
「衣装は九瀬に任せておけばいいし」
「面倒なことを押しつけられてる気もしなくはない」
 九瀬君は笹本の友達らしく、言うこともあまり遠慮がない。
「でも九瀬、衣装作り好きだろ?」
「まあ、そうだ」
 今までは絵だけでなく衣装作りも笹本と二人だけでやってきたけれど、裁縫が信じられないほど正確で速い九瀬君がきてくれたので仕事が一気に減った。
「輪島さんも、ありがとう。すごく助かってるよ」
 笹本が朗らかに微笑むと、輪島さんは少し俯いて頷いた。それを、九瀬君が横目で見ていた。
 たぶん九瀬君も気づいているのだろうけど、輪島さんは笹本のことが好きなのだと思う。
 気持ちはよくわかる。内気そうであまり話すことが得意でない輪島さんのような人は、笹本の気さくさと優しさに光に照らされたような魅力を感じるのだろう。
 笹本が彼女の気持ちを知っているのかまではわからない。私の気持ちを笹本が気づいているのかどうかわからないと同じだ。
「そろそろ昼だから休憩しよ。コンビニ行く?」
 笹本の言葉に、九瀬君はそっけなく、輪島さんは小さく答える。
 九瀬君と輪島さんが来てくれるようになってから、笹本と二人だけの時間はずいぶんと減った。それは残念だったけど、安堵してもいた。
 笹本とのかかわりを少しずつ減らしていけば、自然に離れていける気がしたから。
「和泉は?」
「私は……」
「おいでよ」
 笹本は以前と同じように誘ってくれる。心地よい声でそっと言う。
「私はいい。伊吹と約束がある」
 硬い声音で私が答えると、笹本は小さく頷いた。
「そっか」
 それで今日も笹本たちと私は分かれるのだ。
 私は校舎を出て、紅葉の木の下のベンチに座る。そこでスケッチブックを広げたところで、上から声が振ってきた。
「待たせた」
 低音が近付いたかと思うと、隣に腰を下ろされる。誰かはもう、振り返らなくてもわかる。
「無理してこなくていいぞ、伊吹。約束はしてないんだから」
 私はスケッチブックをみつめたままぽつんと呟く。伊吹はなんてことないように答えた。
「俺が嫌々来るほど暇に見えるか?」
 それは傲慢な言い方ではあるけれど、事実なのだ。
 伊吹は今放映中のドラマで人気を集めて、CMやら何やらで今やテレビに出ない日はないそうだ。
 たぶん大学に来るのも時間を捻出するのに大変だろうと、業界に詳しくない私でも想像がつく。
「まあ食え。だいぶわかった。お前、一人じゃなきゃ食べるんだろ」
 けれど私がここで絵を描いていると、伊吹はたびたび現れて昼ごはんを渡していく。なんだか笹本を思い出すけど、伊吹はまた違っていた。お菓子とかじゃなくてしっかりとしたものを持ってくるのだ。
「これくらいならいけるか」
 今日私に渡したのはサンドイッチだった。野菜とチーズの、油ものが苦手な私でも何とか食べられそうな具が入っていた。
「……ありがとう」
 しかも手作りだった。不器用さがにじみ出るサンドイッチは、誰かからもらったものではなく伊吹が作ったものに違いなかった。
 中身は同じだがサイズが大きい自分の分を取り出しながら、伊吹は言ってくる。
「昨日伝えたが、今日はこれから収録だから送ってはやれない。悪いな」
「いいよ。小さい子どもじゃないんだから」
「気をつけて帰れよ」
 縁日以来、伊吹は家まで送ってくれるようになった。それができない時はわざわざ知らせてくる。
「伊吹、これ」
「ん?」
 私はバッグから弁当包みを取り出して伊吹に渡す。
「よかったら夜食にでもしてくれ」
 いつも世話になっているからと続けた私を見て、伊吹はぴたりと止まる。
 伊吹はぎこちなく私と弁当を見比べる。
「いや、無理にとは言わないが」
 視線が五往復くらいして私が引っ込めようとした時、奪うように弁当を取られた。
 そのまま包みを解いて箸を取る伊吹に、私は首を傾げる。
「今食べるのか? サンドイッチはどうする?」
「それこそ夜食にでもする」
 伊吹はひと口目を飲みこんで、小さく頷いた。
「うまい」
 伯父や葉月なら笑顔と事細かな感想と褒め言葉をくれるところで、伊吹は三文字口にしただけだった。
 それは実に無愛想な態度だったが、お世辞でも何でもなく単純に思ったことを口にしただけだとわかっていたから不快じゃなかった。伊吹はそういう奴なのだ。
 そう思った自分に、いつの間に伊吹のことをそれほど知った気になっていたのだろうと不思議な心地がした。
「伊吹はこんなのでいいのか?」
 食べきった頃を見計らって、私は問いかけた。
「お前は私にいろいろしてくれる。でも私はお返しらしいものをしてない」
「弁当を作ってくれただろう」
「お前にお弁当くらい作ってくれる女の子はいくらでもいる。たぶん、もっと上手に、お前好みに」
 私は考えながら言う。
「私たちは、なんだか、その……不公平だと思わないか?」
 いい言葉が思い浮かばないまま言うと、伊吹は苦笑した。
「真面目だな、お前。じゃあお返しをくれって言われたらどうする
「伊吹は言わないのが不思議なんだ。なんでだ?」
 伊吹は一拍だけ考えてから言った。
「俺は、恋愛も勝負だと思ってる」
 どんなことでも人に勝とうとする伊吹らしいと思った。
「好きになった方が負ける。俺はお前に負けた」
 あっさりと勝ちを譲った伊吹に、私は目を瞬かせる。
「俺だってできるなら見返りは欲しいよ。でも要求できる立場にない。俺にできるのは、お前がこっちを見るように他より目立ってみせるだけ」
「そんなの、お前のプライドが許すのか?」
「どうせお前に会った時から俺のプライドはズタズタだ」
 伊吹は可笑しそうに口の端を上げる。
「俺は満足してる。競うことも好きだしな。お前といるといつも油断できなくて、他の奴に負けるもんかと思うからな」
「お前に張り合う相手がいるか? 私はモテないぞ」
 きょとんとして私が言うと、伊吹は目を鋭くする。
「笹本がいる」
 目を逸らした私に、伊吹は語気を強めた。
「あいつを甘く見るのもどうかと思う」
 伊吹は顔を上げて木々の向こうを見やる。視線の先には二階のベランダがあった。そこは学生たちがお弁当やコンビニで買ってきたものを持ちこんで食事ができるスペースになっていた。
 ベランダの席に、九瀬君たちと一緒に食事をしている笹本の姿をみつけた。
「笹本は、俺とお前の関係をずっと疑いながら見てるぞ」
「サークルの皆だって疑ってることだろう」
 私だって、未だに伊吹がなぜ私を好きだと言っているのか理解できていないのだから。
「俺の兄貴が聞いてきたことだがな。この間、サークルの女子たちが俺たちのことを話していたそうだ。「伊吹君は珍しがって話しかけてるだけ。付き合ってなんかいない」と」
 まあそう言われて当然だろうと、私は頷きかける。
「それに、笹本は笑いながら頷いたそうだ。「俺も付き合ってない方に一票入れるよ」と」
 伊吹は睨むように笹本を見上げながら口にする。
「……「和泉が好きでもない相手と付き合えるとは思えないからね」とな」
 ちょうどその時、ベランダにいる笹本がこちらを振り向いた。
 庭にはベンチがたくさんあって、木々が生い茂っているからぱっと見には私たちをみつけることすら難しいはずだ。それに私たちはいろいろな場所を転々としている。伊吹には訊かれるまま一応知らせているが、私は笹本に教えたことは一度もない。
 けれど笹本は瞬時に私と視線を合わせた。まるで最初から私がここにいることなど知っていたように。
 そして穏やかに微笑んで、軽く手を上げて見せたのだった。







 芽衣子おばさんは、時々不思議なことを頼んでくることがある。
「零ちゃんお願い。金曜の夜、食事につきあってよ」
「いいけど」
 葉月は最近忙しいから夜待っていても一緒に食事をすることはできない。だから葉月の分は作っておいて、好きな時間に食べてもらえばいい。
「おばさんはいいの? 私がいたら邪魔にならない?」
「違う違う。私の彼氏ってわけじゃないのよ」
「今回も仕事の人なんだ」
「まあそんな感じ」
 その食事の場にはいつも男の人が一緒だ。幼い頃はおばさんのお付き合いしている人かと思っていたけどどうやら違うらしい。
 そして約束していた金曜日の夜、おばさんは私を迎えにきてクラブらしき場所に連れていった。
「雅人には絶対言っちゃ駄目よ」
 そう念を押すのもいつも通りだった。
 ゆったりした洋楽の流れる店内は少し照明を落としてあった。私はおばさんの後ろをついていって、窓際の席に案内される。
「こんばんは、零ちゃん」
「こんばんは」
 待っていたのは、四十代くらいのスーツ姿の男の人だった。
「待たせちゃってごめんねー、渡辺さん」
「いや、全然待ってないよ」
 前にも会ったような気がするし、違うような気もする。
 私にとって男性というのは長い間伯父だけだった。その内男の子は嫌いで、もっと大人の男の人は興味がなかった。伯父があまりに何もかも備えていたから、伯父だけみつめていれば満足だった。
 だから失礼だろうけど、彼に何の特徴をみつけられないのだ。私には、伯父以外の男の人は全部同じに見える。
「渡辺さんはすごいのよー。この年で取締役なんだから。それで、この間……」
 おばさんは私が黙っていてもどんどん話してくれるから気楽ではある。けど、こんな失礼なことを考えながら無関心に座っているだけの姪なんてこの場には必要ないんじゃないかなとも思う。
 おばさんはこの人のことが好きなのだろうか。だったらあんまり無愛想にしてこの人を不愉快にしてはいけない。それはわかっている。
「そうなんですか」
 そうはいっても、私は言葉少なく頷くくらいしかできない。話は苦手で、知らない人と話すことはもっと苦手なのだ。
 だから食事にも箸が進まなかった。いつも外食の店を選んでくれる伯父や葉月はグルメだから、それに比べると全然おいしく感じない。
 私は食事に目を落として、ふと思う。
 この間伊吹がくれたサンドイッチはすんなりと食べきれた。手が込んでいるわけでも特別な食材が使われているわけでもなかったのに、素直においしいと思った。
 周囲を見回して、やはり伊吹のことを考える。
 もしあの辺りに伊吹がいたらどうだろう。この薄暗く広い店内であっても、伊吹なら他の男の子に埋没することはないだろう。あいつはそれくらい異質で、他にはない引力がある。
 そこまで思ったところで、私は眉を寄せた。
 伊吹のことが、私は大嫌いだったはずなのに。ちょっと親切にされたくらいで、あいつが目立つだけで、私はあいつのことを考えてしまうのか。
 なんだ、私は。笹本が好きなんじゃなかったのか。……私はもう、心変わりしてしまったのだろうか?
「ねえ、零ちゃん」
 声をかけられて、私ははっとする。
 いつの間にか芽衣子おばさんがいなくなっていた。渡辺さんは私の正面の席に移っていて、微笑みながら私を見ていた。
「今日これから、夜景でも見にいかない?」
「夜景?」
「ライトアップされた紅葉が綺麗な場所があるんだ」
 渡辺さんを熱心に褒めていたおばさんならきっと大歓迎だろうと、私は頷く。
「素敵だと思います。叔母が喜びます」
「そうじゃなくて。零ちゃんと二人で行きたいな」
 私は首をひねる。
「私にそこまで気を遣って頂かなくて結構です」
 私は芽衣子おばさんのおまけみたいなものなのだ。ただでさえ食事をおごってもらっているのだから、これ以上二人の邪魔をしてはいけないだろう。
「そう構えないでさ。伯父さんに甘えるみたいでいいんだよ」
「伯父は私の父のようなものですから」
 他人とはとても同列には並ばない。そう思って返すと、彼は薄く笑う。
「わからないかな。僕は零ちゃんが……」
 身を乗り出して何か言おうとした彼の前に、すっと腕が伸びた。
「こんばんは」
 その声を聞いた瞬間、私は全身が神経になったような心地がした。
 振り向かなくても、気配でわかったくらいだ。
 ……笹本が私たちの間に片手をついて、そこに立っていた。
 私が言葉も出ないままにただみつめていると、笹本は楽しげに口を開く。
「ひどいな、渡辺さん。浮気?」
「優希君。誤解を招くような言い方よしてくれよ」
「じゃあ叔母さんに言ってもいい?」
 ぐっと言葉に詰まった渡辺さんに、悪戯っぽく笹本は首を傾ける。
「俺、特選和牛ステーキが食べたいな」
 それを聞いた渡辺さんは渋々といった様子で店員さんを呼ぶ。
「これを一つ……」
「あ、俺ドンペリって飲んだことないんだよね」
「じゃあドンペリグラスを……」
「えー、渡辺さん取締役でしょ? 俺一本くらい飲めるよ」
「わかった。なら」
 渋面を顔いっぱいに浮かべた彼の前で、笹本は私に振り向いて笑いかけた。
「それよりかわいい子と話がしたいな。ちょっと彼女借りるね」
 おいでと笹本は私の手を掴んで引く。
 私は確かにさっきまで伊吹のことを考えていた。
 でも笹本に会った瞬間、私は頭が笹本のことで塗り変わってしまった。
 私は何も言えずに笹本に引っ張られて、厨房まで連れていかれた。
「どういうこと?」
 ようやく口を利けるようになった私に、笹本は冗談っぽく言う。
「何頼む? 今なら何でも食べ放題だよ。全部あの人につけといてもらえるから」
「笹本、説明」
 私が語気を強めると、彼はようやく笑顔を収める。
「危なかった。もうちょっと遅かったらホテルにでも連れ込まれてたかもしれない」
「は?」
 突拍子もないことを聞いた気がして、私は思わず首を傾げる。
「あの人は叔母さんの仕事の人。私は叔母さんについてきただけだよ」
「その叔母さんが問題なんだ」
 笹本が珍しく顔をしかめた時、厨房の入り口から顔を覗かせた女の人がいた。
「優希ちゃん、仕掛けてきたわよ。人払いはしたから裏口から行きなさい」
「ありがとう。面倒なこと頼んでごめんね」
 親しげに笹本が言うと、彼女はあっさりと手を振る。
「何言ってるの。この辺の店の子はみんな優希ちゃんの味方よ」
 彼女に笑い返して、笹本は私の手を引く。
「黙ってついてきて、和泉。すぐわかるから」
 仕方なく私は笹本の後ろをついていく。厨房から外に出て裏口から入ると、そこからカウンターの下に潜り込んだ。
「まだ連れ出してないの、渡辺さん」
 ちょうど給仕の人が周りからいなくなった時、叔母の声がカウンターの向こうで聞こえた。
「邪魔が入った。どうなってるんだ。あのコブが来るなんて」
「優希君が?」
 芽衣子叔母さんは驚いた声を出してから、苦笑する。
「それは、まあ……あの子の遊び場だからたまたま居合わせただけよ。悪戯っ子なだけでかわいいものじゃないの」
 カウンターの下で、笹本がぺろっと舌を出した。
「だったら追い払ってくれ。今日こそ零ちゃんと二人きりにするという約束じゃないか」
「それなら……ええと、これくらい」
 何を言っているのだろうと私はカウンターの下で怪訝な顔をした。
「金はもう払っただろう」
「追加分。他にも払ってくれる人はいくらでもいるのよ」
「仕方ないな」
 何か紙の掠れる音がした。
 二人が離れたのと同時に、笹本はカウンターの下から何か小さな機械を剥がしてスイッチを切った。
「優希ちゃん、これ。きっちり写したから」
「ありがとう」
 別の店員のお姉さんがやって来て笹本にカメラを渡す。
 それから笹本は私を連れ出して裏口の外にまで来ると、カウンターから剥がした小さな機械を見せる。
「ICレコーダー?」
「うん。さっきの会話を録音した。これと金の受け渡しの写真で完璧な証拠だ」
 笹本はふっと笑って頷く。
「これを雅人さんに渡せば、あの人は二度とこんなことできなくなる」
 私にも、さっきの会話が何を意味しているのか理解できなくはなかった。
「あの人って……芽衣子おばさんのこと?」
 芽衣子おばさんは私を連れてくることでお金を取っていた。それはきっと、よくないことではあるんだと思う。
「芽衣子おばさんを、どうするの?」
「それは雅人さんが解決してくれる。とりあえず、和泉に二度と近づかないくらいにはしてくれるはずだ」
 どうして笹本が伯父のことを知っているのかとか、訊きたいことは山ほどあった。
「おじさんには知らせないで、笹本」
 けれど直感が私の口を開かせる。
「芽衣子おばさんは悪い人じゃない」
 私の口から真っ先に出たのはその言葉だった。笹本は私の言葉が理解できないとでもいうような顔をする。
「さっきの会話聞いたろ? 和泉は売られようとしてたんだよ」
「何か事情があって仕方なかったんだ。きっと」
「和泉……」
「それに、えと、私は危ない目に遭ったことないし。とにかく、まだ何も問題は起こってないんだからいいんだ」
 うまく説明できないながら何とか言葉を重ねていると、笹本はそんな私をじっとみつめていた。
「和泉は信じちゃうんだな」
 笹本はぽつりと呟いて苦笑する。
「だから周りはそんな和泉を守ろうとするんだ」
 それから首を横に振って笹本は告げる。
「俺は雅人さんに言う」
「笹本」
「芽衣子さんがろくでもない人だってことは俺の方がよく知ってる。このまま放っておくわけには……」
 私が焦って顔をしかめた時だった。
「優希ちゃん」
 私は一瞬気付かない内に声を発していたかと思った。その声は、私の声にあまりにそっくりだったから。
「夜にこの辺に出入りしちゃ駄目って何度も言ったでしょ」
 その高くて子どものような声を聞いた途端、笹本は言葉を止めて振り返る。
「……叔母さん」
 え、と私は息を止める。私たちが振り返ったそこには、小柄で少女のようなあどけない雰囲気を持つ……私の母が立っていたから。
「聞いてよ、冴さん。やっと俺、あの人の尻尾を掴んだんだ」
 笹本は子どもが褒めてもらいたい時のような声を出して、母に駆け寄ろうとする。
「店の子に聞いたわ。なんてことしたの。レコーダーとカメラをよこしなさい」
 けれど母の厳しい口調に、笹本は訝しげに眉を寄せる。
「どうして? 悪いことやってるのは芽衣子さんじゃないか」
「それは芽衣子に私から注意しておくわ。あなたは口を出さないの」
「なんで庇うの? 叔母さんだって芽衣子さんのせいで散々苦労して……」
「芽衣子のことは私がどうにかしないといけないの。兄さんを関わらせちゃいけないのよ」
 憮然とした笹本に、母は暗い目をして言った。
「……あなたも芽衣子も、兄さんの本当の怖さを知らないんだから」
 こんなに母が話すことを聞いたことがなかったからだろうか。私は母の言っていることがまるでわからなかった。
 紳士的で温厚で優しい伯父が怖いだなんて、首を傾げることしかできなかったのだ。
「とにかく、兄さんに知らせるのは絶対に駄目よ」
「嫌だ。和泉が危なくなるかもしれないのに」
「優希ちゃん」
 母は涼やかな黒曜石の瞳で笹本を見据えて告げた。
「ママの言うことが聞けないの?」
 それに笹本が言葉を詰まらせた気持ちが、私は痛いほどわかった。
――パパの言うことが聞けない?
 幼い頃から、私も伯父に言われてきた。決して厳しい口調ではなく、時には微笑みながらの言葉だったけど、伯父にそっぽを向かれたらと思うと従う以外に方法がなかった。
「……次何か変な動きをしたら、今度こそ告げ口するからね」
 だから笹本が悔しそうにレコーダーとカメラを渡したのも、私は仕方ないと思って見ていた。
「和泉。せめて送らせて」
「途中までなら」
 母が去った後に申し訳なさそうに笹本は告げてきて、私は頷く。
 帰り道、私はぽつりと呟いた。
「笹本の叔母さんって、私の、あの……母だったんだね」
 母をお母さんと呼んだことがないので、どう言えばいいのか困りながら言う。
「うん。俺の父親って雅人さんらしいんだ。お父さんって呼んだことはないけど」
 私はごくっと息を呑んで、初めて知った事実に瞠目した。
「伯父さんに子どもがいるなんて知らなかった……」
「戸籍上は俺って両親いないんだ。雅人さんの子だってことは芽衣子さんが言ってただけだから、ただのデマかも」
 言っている内容に反して、笹本は明るい顔をしていた。
「でもね、親子って感じは全然なくても、雅人さんとは仲いいよ。いろんな所に連れてってもらったし、あれこれ面倒も見てくれた。叔母さんにも優しいし、俺はあの人好きだな」
「私のことも伯父から聞いたの?」
「いや。それは芽衣子さんから」
 笹本は苦い顔をして目を逸らす。
「あの人は叔母さんや雅人さんと違って性質が悪い。どんな風に言ってたかは、和泉には聞かせたくない」
 それは母が私を産み捨てたと言っていたような口汚いものだったのだろうかと、私は何となく思う。
「芽衣子さんとは縁を切った方がいいよ」
 私はその言葉には即答できないまま、ふと問う。
「笹本は、いつから私と従兄妹だって知ってたの?」
 笹本は少し考えて答えた。
「最近かな。秋に入ってくらい」
 本当にそうなのかなと私は心の中で疑問符を浮かべて黙った。
「和泉?」
 笹本は春のお花見で初めて会った時に、もう私のことを知っていたんじゃないだろうか。
 そうでなくては、私みたいな子に声をかける理由がない。従兄妹だから親切にしなきゃいけないと考えて歩み寄ってくれたんじゃないだろうか。
「笹本は優しいね」
 思わず呟いた言葉は苦味を帯びていると、放ってから気付いた。
「え?」
 女の子として扱ってくれたんじゃなかったんだと思うと、少し寂しく感じた。
 駅が見えたところで、私は足を止めて振り向く。
「じゃあ私、ここまででいいから。送ってくれてありがとう」
 従兄妹への親しみだって十分温かい気持ちなのに、それでは嫌だと思ってしまう自分が嫌だった。







 笹本は穏やかで人当たりがいいけど、そうでない時も見かけたことがある。
――やっぱり、はーちゃんかわいいよな。
 それは今放映中のドラマを、サークルの部屋でみんなが見ていた時のことだった。
 そのドラマは葉月がヒロインとして出演しているから、私は録画して家で何度も見ている。
 テレビに映っている葉月も普段家でくたっとしている葉月と変わらず綺麗だ。私はみんなが噂しているのを頷きながら聞いていた。
――伊吹君にならだまされたい!
 そのドラマの主人公で葉月の相手役が伊吹だった。
 伊吹の役は悪い男でいろんな女の人を手玉に取って利用する。けれど葉月演じるヒロインの純真さに彼女をだましきれなくて、次第に惹かれていく。大筋だけ言うとそんな話だ。
 伊吹は演技力とその見栄えの良さで、鑑賞しているサークルの女の子にいつも騒がれている。
――ま、悔しいけどかっこいいよな、伊吹。
 男子もやっかみながら、まあ仕方ないと諦めて見ているようだ。
――じゃあ、おつかれさまです。
 毎週ドラマの放映時間である金曜の九時になると、みんながテレビの前に集まっている。その中で、笹本だけは居心地悪そうに帰り支度をするのだ。
――優希君も見ようよ。ストーリーもいいんだよー。
――そうそう。それにほら、笹本ってはーちゃんのファンじゃなかったっけ。
――えー、そうなの?
 最初はバイトで忙しいのか、それとも家に帰って一人で見たいのかと思っていた。
 男子がからかい調子で、女子が妬み調子でかけた言葉を、普段の笹本ならおっとりとやり過ごしたに違いないだろう。
――うん。俺、はーちゃんのこと大好き。
 だけど笹本はそれをしなかった。彼にしては珍しく、苛立ったような口調で返した。
――だから男といちゃいちゃしてるのは見たくないんだ。じゃあね。
 早足で去っていく笹本に、サークルの面々は驚いたように囁き合う。
――優希君ってあんなキャラだっけ? 今怒ってたよね。
――あいつも意外と普通のところあるんだな。
 女の子の評価を少し下げて、男の子からは多少の親しみを受けたようだった。
――そういえば前情報だけど、来週伊吹君とはーちゃんのキスシーンあるんだって。
――うわっ、伊吹がはーちゃん汚すのか? あいつ、ただでさえもう三人手つけてるのに。
――嫌ぁ。何度見てもそれはいやぁー。
 私も、確かに葉月が男の子とキスするのはちょっと嫌だなと思っていた。
 土曜日、葉月が珍しく一日オフだったから家で過ごすことになった。
 美容師を目指す葉月は昔から暇があると私の髪を手入れするのが好きだ。だから私は葉月に髪を切ってもらうことになった。
 私の毛先を丁寧に梳く葉月に、私は何気なく聞いてみた。
「ねえ、葉月は今度キスするの?」
 拙くて文脈も何もない私の言葉を、葉月はしっかりと汲み取ってくれた。
「ドラマのことね。うん。明日収録なの」
「彼氏以外とキスするの、嫌じゃない?」
「ふふ」
 葉月はくすりと笑う。
「大丈夫よ。私、伊吹君とは仕事上の付き合いだけだから。私も彼にとっても、ただの演技以外のものじゃないわ」
 鏡の向こうから悪戯っぽく私を見返しながら葉月は言った。
「伊吹君とはもうキスした?」
「し、しないよ」
 思わず顔を赤くした私を、葉月はじっとみつめる。
「葉月?」
「何となく気づいてはいたんだけど」
 葉月は笑みを収めて言う。
「れいちゃんの好きな人って、伊吹君じゃないわよね」
 私は一瞬笹本への想いが葉月に知られたかと思って心が騒いだ。
「やっぱり」
 だけど嘘をつくわけにはいかなくてこくりと頷くと、葉月は続けた。
「その人はれいちゃんのことをどう思ってるの?」
「うんと……それが、わからない」
 私は迷いながらぽつぽつと話す。
「親切にしてくれるし、優しいけど……他の女の子にも優しいから」
 葉月がつと目を伏せて黙るので、私は慌てた。
「あ、でもそれで当たり前なんだよ。だって彼女がいて、その子のことがすごく好きなんだから」
「彼女がいるの? それでれいちゃんにも優しい?」
 葉月の声に非難の色がこもっていた気がして、私はなお焦る。
「友達だから」
「……だったら」
 葉月は私の毛先を少し切って言う。
「私はその男の子、好きじゃないわ。れいちゃんを一番に想ってくれないんだもの」
 ハサミの音と同時に、私の後ろ髪がぱらりと落ちる。
「無駄なことしてるってわかってるの。だからあきらめようとしてるの」
「無駄なことじゃないわ」
 私が目を伏せて暗い顔をしたら、葉月は私の首に腕を回して耳元で告げる。
「れいちゃんの気持ちを一人占めしてるのに、他の子を見てるのがずるいと思うだけよ」
 葉月は私を椅子ごと回転させて倒す。
 シャンプーが入らないようにタオルを私の目の上に乗せて、葉月は私の髪を洗い始めた。
 私はタオルで真っ暗になった視界の中で思う。
 葉月は私のことを心配してくれる。私はそれを嬉しく思うのと同時にたまらなく不安になる。
 私の好きな人が自分の彼氏の笹本だと知ったら、葉月はどんな反応を取るのだろう。私を怒ったり、蔑んだり、嫌ったりするだろうか。
 それとも……と考えかけて、私は目をぎゅっと閉じる。
 今、葉月に嫌われるより最悪の想像をしてしまった。そんなことになったら私は一体どうしたらいいのだろう。
 ……駄目、それだけは絶対に駄目。
 そう思って、私は決意を固める。
「ね、れいちゃん。さっき、彼氏以外とキスするのが嫌かって訊いたわね」
 沈黙の中、ふいに葉月が切り出した。
「比較のしようがないわ。実は私ね、今の彼とキスしたことないから」
 葉月は静かな声で淡々と続けた。
「付き合いだしたのは高校の頃からだけど、子役の頃に何度か一緒になったから彼のことは知ってたわ。彼は天才的な子役で、人気者だった。私、ずっと憧れてた」
「葉月が憧れた?」
「そうよ。それに優しかった。だけど、れいちゃんの好きな人みたいに、私以外にも優しかったの」
 顔を見ることができないから、私は葉月がどんな表情をしているのかわからなかった。
「確か小学校に上がるくらいの頃だったかしら。私と彼が一緒に出ることになった劇場に、友達と喧嘩してしまって一人で泣いていた女の子がいたの。周囲の大人が困り果てる中で、彼は迷わず彼女に近付いたわ」
 少しためらう気配がして、葉月がそっと告げる。
「「大丈夫、一人じゃないよ。僕がいる」って言って、その子にキスしたの」
 私ははっと息を呑む。
「……それ以来、彼とはキスしないって決めてるの」
 葉月はシャンプーを終えてトリートメントを始める。
 もう目の上のタオルは必要ないのに葉月はそれを取ろうとはしなかった。私も手が上げられなかった。
「なんて、もう十年以上前のことよ。たぶん彼もその女の子も忘れてるでしょうね」
「そんな……葉月は傷ついたんでしょ?」
「付き合う前のことだもの。今更掘り返す出来事じゃないわ」
 でも葉月が今でも気にしていることは事実だ。私が口の端を下げると、葉月は宥めるように続けた。
「そんな小さい頃のことにこだわってる私の方がおかしいのよ。そうね、いい加減キスの一つくらいできなきゃね」
 ふいに葉月は手を止めた。
「れいちゃん。私に勇気をちょうだい」
 私は一瞬、勇気を優希と聞き間違えた。
「最初から葉月のものだよ」
 思わずそう答えた私に、葉月が屈みこむ気配がした。
 真っ暗の視界。その中で、掠めるように葉月の唇が私に触れる。
 それはくすぐったくて、少しだけ甘いキスだった。
「伊吹君の先を越してやったわ」
 タオルを取って、葉月は愉快そうに笑う。
 楽しそうな葉月を見ていて、驚くより安堵している私がいた。
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