恋人の木
武志は、その瞳をそのままにしてはいけないと思った。

もう二度と…


『さぁ、楓さん。今ここで、卒業式をやり直そう。』
武志のその言葉に、彼女の瞳の輝きが少し戻る。

持ってきたバッグから、預かっていた卒業証書を取り出した。

今日もし会えたら、渡すつもりで持って来ていたのである。


向かい合った二人の間を、桜の花びらが、舞い落ちて行く。


涙をぼろぼろ流しながら、彼女が真っ直ぐに見つめる。


『桜木中学校、第22期卒業生、坂本・・・』

涙で声が詰まった。

『・・・坂本、楓!』


『・・・はい。』

楓が一歩前に出る。

噛み締めた唇が震えている。

『卒業、おめでとう。・・・長かったね。楓さん。』

彼女の伸ばした手に、ゆっくり武志も手を伸ばして行く。


卒業証書が、彼女の手に渡る・・・はずであった。


しかし、それは彼女の手を通り抜け、二人の足元に落ちた。

『えっ・・・!?』

時間が・・・止まった。

『か、楓・・・さん。』

武志の脳裏に、今夜のことが想い出された。


(寒くないですか?)

(ガイドの挨拶は・・・?そんなもんねぇよ。)

(秀樹が空けた襖をすり抜け・・・)

(ガイドが連絡を・・・なんだそりゃ?)

(人件費削減で・・・)

(門を…すり抜け・・・た?)

今にして思うと、彼女が、武志以外の者と話すことも、武志以外の者が、彼女に話しかけることもなかった。

武志以外に、彼女の存在はなかったのである。


『き・・・君は・・・』

悲しい目で、涙を流す彼女が、静かに口を開いた。

『武志さん。ごめんなさい。私はもう・・・。』

(この世には、生きていない・・・。)


彼女は、病気が見つかった後も、彼に会いたい一心で必死に働いた。

しかし、半年も経たずに病床に倒れ、二度と立つことはなかったのである。

自分では早くから気付いてはいたが、病院へ行く時間とお金を惜しんで働いた結末であった。

父親が見守る中、彼女はおよそ19年の悲しい生涯を終えた。

最後まで、愛する人がくれたボタンを、握り締めたまま・・・。
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