いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
「……素敵な人だったな。烏丸さん」

 素敵なのは知っている。一緒に数時間を過ごして、その思いが強くなった。戸惑う史織に丁寧に接してくれたのもそうだが、人柄がとても温かい。

 いつの間にか、「烏丸さん」と呼べるくらいに彼に対する気持ちをほぐされていた。

 泰章のことを考えていると、また体温が上がる気配がする。史織は麦茶を流し込みクールダウンを目論んだ。

 帰りはアパートの前まで彼が運転する車で送ってもらった。アルコールはなしと言っていたが、史織だけではなく彼も飲まなかった。

『史織さんを送りたいので』

 しれっと言ってしまえるところが、とんでもなく紳士である。

 話しながら、食事をしながら、彼が史織を見つめる眼差しを思いだすと頬が暖かくなる。彼はどういうつもりで誘ってくれたのだろう。ただのナンパ、とは自分で言っていたが本当にそれだけなのだろうか。

(もしかしたら……)

 思考が都合のいい方向へ動きそうになり、それを意識すると急に羞恥心が活動をはじめた。同時に罪悪感まで湧いてくる。

 間違ってもそんなことは考えるべきじゃない。自惚れてはダメだ。あんな素敵な人がもしかしたら自分を気に入ってくれているのでは……なんて、考えるだけでも申し訳ない。

 彼はきっと、いつも接客でお世話になるから、そのお礼のつもりだったに違いない。ただ、接客のお礼と言ってしまうと史織が遠慮するから「ナンパ」なんて彼には似合わない言葉を使っただけだ。

 自分の心に強く言い聞かせ、史織はコップに残っていた麦茶を一気に飲んで背筋を伸ばす。

「よしっ」

 力強く両手を膝に置き前を見て、ハアッと息を吐きながら力を抜いた。

 自惚れるべきではないというのはわかっているけれど、泰章を素敵な人だと感じているのは嘘ではないし、声をかけられてときめいてしまったのも正直な気持ちだ。

 それでも、今日の奇跡を史織は素直に喜べない。

「……お母さんと同じことになったらいやだもん」

 そんな言葉を呟いてしまったことがつらくて、膝に置いた手を強く握りしめた。
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