いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 アルバイトだった史織を『そのまま就職しちゃいなよ』のひと言で社員にしてしまった張本人である。のちの話では『史織ちゃんがどこか他の店で販売員になってたら悔しいじゃない』と、かなり史織の仕事ぶりを気に入っている。

「史織ちゃんは、心ここにあらず、なのかな?」

「そっ、そんなことはないですっ。すみませんっ」

 点検していたのぼり旗を掴む手に力が入ると、いつもと違うゆるさを感じる。引っ張って確認したところ、竿と旗を結ぶループがひとつ外れかかっていた。

「納品してもらったばかりなのに……。業者さんに電話しておきますね。なんだか文字がゆがむなーって思ってたんです」

 夏スイーツフェアののぼり旗は期間限定で使われるもので、毎年新しいものが発注される。納品されたばかりの時は感じなかったのだが、どうも今朝から〝イ〟の部分がたゆんで〝夏スーツフェア〟に見えてしまうので、とても気になっていたのだ。

 スーツなんて文字を見ると、泰章を連想する。

 蒸し暑さが残る夕方や夜でも三つ揃えのスーツを着崩すことなくスマートに着こなし、彼の周囲にだけ爽やかな風が吹いているようにさえ思えてしまう。

 スーツ姿が、本当に素敵なのだ。

(でもわたし、スーツ姿しか見たことないし……)

 他の姿もきっと素敵だとは思うが、今は泰章といえばスーツしかイメージできない。

「のぼりの変化に気付けるくらいだし、心ここにあらずでもないのかな? でも、今日はいつもの史織ちゃんの元気がないような気がするな」

 腕を組み笑顔で首を傾げる純子が身に着けているのは、従業員と合わせるように白いイタリアンカラーのシャツにラペルドベストの黒いパンツスーツ。スレンダーで背が高く、先日四十の誕生日を迎えたが二十代の従業員より元気のいい女性である。

 ちなみに、店長でもあるパティシエの奥さんだ。

 大雑把に見えて従業員の変化に細かく気付いてくれる。職場の雰囲気がいいのは純子のおかげではないかと思う。

 察しのいい人だからこそ史織の様子にも気付いたのだろう。自分でも少しソワソワしているのを感じている。

「すみません。元気がないわけではないです。ちょっと考え事をしてしまって……」

「烏丸さんのこと?」

「ひぇっ」
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