いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 純子の話ぶりから考えると、泰章は初来店の時から史織贔屓だったと言わんばかりだが。

 それはないだろうと思う。彼が初めてgateau gateauを訪れた時、史織が声をかけたのも偶然だったし、彼自身、誰にも声をかけてもらいたそうではなかった。

 それだから、史織が声をかけた。

 かけずにはいられなかったからだ。



 ――二年前。

 送り梅雨を感じさせる、激しい雨が降る七月だった。

 時刻は正午過ぎ。天気のせいなのか客足はあまりよくない。史織がお昼の休憩に入ろうとしていた時〝彼〟が入ってきたのである。

 一瞬、店内の空気が止まった。

 店内に足を踏み入れたのは、とても背の高いスーツ姿の男性だ。雨が降っていたから、と言ってしまえばそれまでだが、上から下までびしょ濡れだった。

 彼は慌てるわけでもなく自分の姿を気まずそうにするわけでもなく、店内を軽く見回し焼き菓子が並ぶ棚へと歩を進める。

 雨宿りのつもりで入ったのなら、それなりのリアクションがあるだろう。それらしきものは一切ない。濡れた髪も顔も拭おうともしない。

 休憩を終えて戻ったばかりの先輩も、ショーケース内のケーキを確認に出てきていたパティシエも、ちょうど店に出てきていたオーナーも、いつもならば率先して客に声かけをする人たちが呆然として声も出ない。三人ほどいたお客さんも、驚いて彼をじろじろと眺めていた。

 つまりはそれだけ、インパクトがあったのだ。

 ずぶ濡れの彼は、黙って焼き菓子の棚を見つめている。クッキー、マドレーヌ、フィナンシェ、ダックワーズ、パルミエ、マロングラッセ。かわいらしくラッピングされたもの、上品に箱詰めされたものなど、見ているだけで楽しくなる光景なのに……。

 彼には、表情がない。

 視線も手も動く気配がない。ただそこに立っていたいだけで、声をかけられることを望んでいる雰囲気ではなかった。

 まるで、疲弊した心を休めるために、ひとりで立ち竦める場所を探していたかのよう。

 みんなと同じように動きが止まっていた史織の胸がズキンと痛んだ。伝わってくる遣る瀬ない孤独感が、まるで――半年前の自分を見ているようで……。

「いらっしゃいませ、お客様」

 それだから、声をかけずにはいられなかった。

 史織は彼の横に立ち、両手で広げたフェイスタオルを差し出す。数秒動かなかった彼の視線がこちらを向いたのを見計らい、ひかえめに微笑んだ。
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