いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 もちろん、史織には社長が突然姿を消した会社が、そして家族が、どんな混乱に陥ったのかなど想像ができない。そんなのは自分がいる環境とは無縁すぎる。

「そんなこと……まったく知らなくて……、わたし……!」

「だから、被害者ぶるなって言ってるの! あんたなんかに……!」

 苛立ちが頂点に達したのかもしれない。薫が勢いよく立ち上がる。その気配に身体が震えた。――その時。

 パンッと、大きく手を叩く音が室内に響いた。

 驚いた史織が顔を上げる。薫も言葉を止め、神妙な面持ちで音がした方に顔を向けていた。

「――やめないか、薫」

 静かだが厳しい声が近づいてくる。

「がなりたてるな。みっともない」

「ですけど……お兄様だって、この女の母親のせいでどれだけ大変な思いをして苦しめられたか!」

「薫」

 目に見えて薫の身体が大きく震え、今度こそ、その口が閉じられる。彼女が畏縮するほど、その声には逆らい難い重みがあった。

 史織のこめかみを、ツゥッと冷たい汗が流れていく。

 声が怖かったからではない。……聞き覚えのある声だったからだ。

 動かなくなった女性ふたりに変わって、福田が口を開いた。

「お疲れ様です、社長。今ちょうど、こちらから連絡をした経緯をお嬢さんにお話ししたところでした。呑み込みのいいお嬢さんで、しっかりと聞いてくれていましたよ。薫さんは、いろいろと我慢なさっていたものが出てしまっただけです。当事者ではなくとも、誰かを責めなくてはやっていられない感情というものは誰にでもありますから」

 福田は女性ふたりをさりげなく庇ってくれる。ひねくれて考えるなら、そんなにあっちにもこっちにもいい顔がしたいのかと思うこともできるが、事を荒立てぬよう、穏便に進めようとしているのがわかる。

 この声の主が入ってきてから、福田のおだやかさに警戒するなにかが加わったように思えた。

 それだけ、注意を払わなくてはならない相手なのだろう。

「中山さん、こちら、そちらの薫さんのお兄様で……」

 福田が史織に話しかけ、入ってきた人物を紹介しようとする。まさか、の思いと、間違いないだろう、の思いがせめぎ合って、顔を向けたい、でも怖い、と心が葛藤した。

「現在、KRMホールディングスの社長を務めていらっしゃいます、ご長子の……」

 息を止めて顔を向ける。福田が紹介するまでもなく、本人が口を開いた。
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