いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
「烏丸泰章だ」

 ――心臓が止まるかと思った。

 目に見えているのは、間違いなく泰章だ。火曜日に店に来て、ひと時のときめきを史織に与えてくれていた人。

 次に彼に会える時、なにかが変わる予感がしていた。それは淡く温かな想いの中で楽しみにしていたことだったはずなのに……。

 今の泰章に、史織が知っているおだやかさを感じることはできない。むしろ、室内を一気に凍りつかせた緊張感を作り出しているのは彼だ。

 いつもと同じ品のいいスーツ姿ではあっても、初めて感じる厳格さが漂っていて……怖い。

「だいたいの事情は、福田弁護士から聞いたことと思う。君の母親が働いた不道徳な行為を、我々一族は許すことができない」

 彼のものとは思えない厳格な声音。重く静かで、決して口ごたえを許さない。先ほど、薫を制したトーンと同じだった。

「君の母親の居場所はわかっていない。捜そうと思えば捜し出せる。どのくらいの期間を要するのかわからないが、そんなにはかからないだろう」

「……見つかったら母は、どうなるんですか……」

 必死に絞り出した声は少し掠れていた。目の前にいるのはよく知っている人であるはずなのに、まるで初めて会った人のよう。

 いや、初めても同じだ。こんな泰章は知らない。こんな……冷たい双眸の彼を見たのは初めてだ。

「親族の中には、本人はもとより、娘の君の代でも支払いきれないレベルの慰謝料を請求するべきだと騒いでいる者もいる。一生を金の工面だけで終わらせればいいと……」

「……支払いきれないレベル……」

 呆然とした声しか出ない。感情を隠した淡々とした口調は、泰章とは思えない。似ているだけで、これは泰章ではないのだと思いたくて仕方がない。

「正直、それで済むかなと感じている。このまま親族に任せたら、それこそなにをするかわからない。社会的に抹殺しかねないだろう。どこへ行ってもまともに暮らせなくなる」

「どうしてですか……。そんな、ひどい……」

 史織の声が震える。その様子が癇に障ったのか、薫が声を荒らげた。

「被害者ぶるなって言ってるでしょう! あなた自分の立場を……!」

「黙りなさい、薫」

 薫の言葉は、またしても泰章のひと言に制される。飛び出すことを禁じられた言葉は薫の口の中で未消化のまま消え失せ、彼女は唇だけをわなわなと震わせた。
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