いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 英明のイメージがまたひとつ崩れていく。

 史織の中で、彼は妹想いの兄だった。妹のために、彼女が喜んでくれると感じたスイーツを「一緒に食べるから」と購入していく優しい兄であるはずなのに。

 実際の彼は、妹を制圧する兄でしかない。

「君は先ほど、どうしてかと聞いた。そんな、ひどい、と。――教えてやろう。君の母親がしたことで、もしも会社が混乱に陥っていたら、この騒ぎに乗じてライバル会社や小賢しい悪質な投資家グループに会社をかき回されていたら、どうなったと思う。全国、いや、世界中にいる何千何万という従業員が犠牲になるところだった。ひとつの家庭が苦しむだけでは済まない話だ」

 史織などが想像もつかない世界の話。それでも、それがどんなに大変なことであるかは想像がつく。

「俺は……そんなことにならないよう必死だった。親族や、古参の重役や役員も……みんな、会社を守ってくれた。――もし、あの時期を乗り切れていなかったら……今でも、それを考えると寒気がする」

 泰章の言葉に合わせたわけではないが、史織はぶるりと身体を震わせた。

 大変な時期を乗り切れていなかったら……。どうなっていたかなんて、深く考えられない。ちょっと想像してみただけで地獄絵図だ。

 なんとかなったからいいものの、それを引き起こす可能性はあった。それだから、薫だってあんなにも激昂するのだ。

(お母さん……)

 母の恋愛に口出しをしたことはない。姿を消した時だって、史織を育てるために頑張ってくれたぶん幸せになってくれたらという想いで自分を納得させた。

 けれど、もう少し口出しした方がよかったのだろうか。どういった人とつきあっているのか、結婚したい人はいるのか。

 史織が高校を卒業したらひとりでやっていくつもりだから、ということも、しっかりと伝えておいた方がよかったのだろうか。

 そうしたら、母の蒸発を止めることができていただろうか……。

 こんなことに……ならなかったかもしれない……。

 史織の顔は徐々に下がっていく。寄木細工模様の床が視界に広がり、そこに磨き抜かれた黒い革靴が入り込んだ。

「もともと身体が弱かった母は、今回の件でひどく衰弱した。一時神経を病んで、今は療養のために別荘暮らしをしている。先ほどから感情的になっている妹も、会社の混乱が原因で良縁を破棄され、ひどく塞ぎ込んだ時期がある。同じ女性なら、君にも少しはその気持ちがわかるのでは?」

「……申し訳……ございません……」
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