いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
「わからないか?」

 わからないわけではない。彼は仕事上の体裁のために妻が欲しいのだ。ただ、仕事が忙しくて結婚を考える余裕はないし、妻というものと関わらなくてはならなくなるのが面倒。

 それだから、彼の都合だけですぐ結婚ができて、その後も気を遣って関わる必要のない……史織に、慰謝料代わりに結婚しろと言っているのだろう。

「お互い、利点ばかりだ。君は慰謝料のため、俺は体裁のため、面倒なことは一切なく割り切った関係でいられる」

「わたしなんかを……妻にしたら……、余計に一族の方々がご納得しないのでは……」

「それは心配ない。ここに来る前に説明はしてある。今の俺に必要なのは、結婚して妻がいる、という事実、それだけだ。皆、それがわかっている。会社のためだ、誰も反対などしない」

 泰章は一度薫に顔を向ける。

「そうだろう? 薫」

 顎を押さえられているので確認はできなかったが、薫の返事は遅かった。訴えてやりたいほど憎らしい女の娘なら、家のため会社のために利用したって罪悪感はない。わかっていても納得できないものがあるのだろう。

「……お兄様が……決められたのでしたら……」

 それでも、薫は兄に従う。きっと、幼い頃からそんな上下関係ができているのだ。

 ますます信じられなくなってくる。火曜日に史織に淡い気持ちを与えてくれていた泰章と、同一人物だと思えない。

 もしかしたら、この男性は、同姓同名で泰章にそっくりな別人なのではないだろうか。

 そんなはずはなくとも、史織はそれを望んでしまう。

 優しくおだやかな泰章の残像が、史織の心の中でまだ大きいからだ。
「ああ、それと、しばらく仕事は続けていて構わない。というか、続けてほしい。不倫相手と別れた君の母親が、もしかしたら会いに来るかもしれない。辞めてしまったら、そんなチャンスもなくなってしまう」

「チャンス……?」

「チャンスだろう? 当事者を捕まえる。今まで聞いた君の話から考えても、店に会いに来た様子はないけれど、男と別れたとなれば娘に会いに来る可能性はある」

「まさか……それだから、話しかけてくれていたんですか……?」

「ん?」

「母が……わたしに会いに来ているか……探るために……?」

 泰章は言葉を止め、ジッと史織を凝視する。ふと、まぶたをゆるめ……憐れむように、嗤った。
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