いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 史織は言葉を絞りだす。手を離してほしくて引こうとするが、見た目より強く握られていて動かない。

「店長さんとオーナーにご挨拶をしに来たんだ。早い方がいいだろう? 史織が、うまく言えるかなって心配していたから、私が言った方がいいと思ったんだ。史織が困ることをさせたくないからね」

 感嘆の息が聞こえてくる。ここまでで泰章の好感度は爆裂に上がっているに違いない。

 昨日から困ることしかされていない気がする。しかしここで睨みつけるわけにもいかず、史織はさりげなく目をそらし、下を向いた。

「びっくりしました……」

「させようと思ったから」

 掴まれていた手に温かい感触。どうやら彼が手に唇をつけてから頬にあてているらしい。國吉まで「ぅわ~」と照れくさそうな声をあげた。

「あの……手……、放してください……」

「照れているの?」

 史織がいやがれないのをわかっていて、泰章はどこまでも仲睦まじさをアピールする。クスッと笑った気配がして、やっと手が放された。

「では、入江店長、オーナー、早朝から失礼いたしました。お話を聞いてくださり、ありがとうございます」

 泰章が丁寧に頭を下げると、店長のうしろにいた純子も横に並んで、一緒に応じた。

「いいえ、烏丸さん自らご報告に来てくださるなんて、恐縮です。史織ちゃんを、よろしくお願いします。もう、私たちにとっては娘みたいなものなので」

「もちろんです。では」

 わずかにホッとする。泰章がいなくなることで安堵感を得る日がくるなんて。考えもよらなかった。

 しかし、史織の安息はすぐさま砕かれる。

「ああ、史織ちゃん、駐車場まで送ってあげな。でも、そのまま車に乗って一緒に行かないでくれよ?」

 気を利かせたつもりなのか、店長の余計なひと言が史織の息を止めた。周囲は笑っているのに、一緒に笑うことができない。

「それは嬉しいな。じゃ、駐車場までっていうのが残念だけど、送ってくれる?」

 尋ねながら史織の手を取り、泰章が歩きだす。ついていかないわけにはいかなくて、史織は素直に手を引かれて歩いた。

 店を出て駐車場へ向かう。駐車場は店の前だが、従業員用の通用口からは見えない。泰章の車が停まっていたのはわからなかった。

「……なんのつもりですか」

「なにが?」

 歩きながら口を開く。なにを聞きたいのかはわかっているはずだし、史織がどれだけ焦ったかも察していただろう。しかし彼はどこ吹く風だ。
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