いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
「はい、さっき烏丸さんがいた時も、一回も笑わなかったから」

 言われてみればそうだ。結婚する相手が姿を現したというのに、笑うどころか嬉しそうな顔ひとつしていなかった。

 おまけに泰章は、足しげく店に通って史織を指名していた常連。こうなってしまうとなにが目的だったかは明白だし、史織もそれを心待ちにしていた。

 それなのに、彼を前にして笑顔ひとつ出ないのは、どう考えても不自然でしかない。

「緊張したの……。店に来るなんて知らなかったし、急に来て、挨拶していくなんて思わなかった」

 由真はジッと史織を凝視している。彼女はものの見方が独特で勘のいい子だ。

 もしや、史織の様子からおかしなものを感じとっているのでは……。

 由真は決まり悪そうに視線を外すと、頭をかく。ちょっと照れくさそうに口を開いた。

「それなら、いいんです。もしかして気にしちゃってるのかなって、あたしの方が気になって……」

「気にするって、なにが?」

「以前、烏丸さんのこと、優柔不断で決断力のない男でたとえちゃったことがあるので……。史織さん、気にしちゃって踏ん切りがつかないのかなとか」

 言われて思いだす。一カ月くらい前、そんな話をした。話が長い男性でいやな思いをしたことがあるのかと、史織の方が勘ぐりそうになった。

 史織はやんわりと微笑む。

「気にしてないよ、そんなこと。あっ、もしかして、さっきずっと黙ってたのはそのせい?」

「……はい、史織さん、なんか困ってるみたいだったから……。余計なこと言ったな、って思って」

「由真ちゃんに言われるまで忘れてた。気にしてないし、さっきは本当にびっくりしてただけ」

 やっと安心したのだろう。由真はニコリと笑って史織と向き合った。

「おめでとうございます、史織さん」

「ありがとう」

 おめでとう。――嬉しい言葉なのに、もらったぶんだけ申し訳なさが溜まっていく。

 嬉しいことのはずなのに、嬉しいと思えない。

 史織の心は、誰にも気付かれないよう、静かに憂いの中を漂った……。
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