いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 今まで、いろいろな場所でレモネードを口にした。一流と言われるレストランや人気のカフェ、コンビニで売っているカップ飲料まで。

 しかし、あの日、すべてに疲れ切って雨に濡れていた泰章に史織が差し出してくれたレモネード以上に、美味しいと感じるものには出会っていない。

 二年半前、年が明けて間もなく、前社長が失踪した。

 当時副社長だった泰章が代行で仕事を進めたものの、社長不在が原因不明のままでは業務に支障をきたす。

 いつ首を取ってやろうかと待ち構えるライバル企業もそうだが、大企業のスキャンダルを狙うケチな記者やら悪質な投資家たちの目をごまかすのもひと苦労。

 情報が漏れないよう、内部は必死だった。おまけに株主総会が目の前で、急遽、泰章が社長に就任する他なかった。

 いくら大企業でも、若い社長への風当たりは強く厳しい。大企業であるからこそ、未来に危機感を覚えて先手を打とうとする取引先も出てくる。

 神経をすり減らし、それこそ寝ないで仕事をした。仕事と疲労が同じスピードで溜まる中、母親が夢遊病から鬱病を重傷化させ、薫は初恋の御曹司に婚約破棄されて塞ぎ込んでしまった。

 家も会社も、泰章の神経もボロボロだった……。

 半年近く経った頃。心が限界を迎えていた。

 突然契約の打ち切り決定を突きつけてきた取引先に出向き、なんとか繋いで戻り、駅を出た時、滝のような雨が降っていた。

 この雨に打たれたら、自分はそのまま地面に埋まって溶けてしまえるのではないだろうか……。

 一歩踏み出した足は、迎えに来ている秘書の車には向かず、別方向へ引きずりながら進む。

 痛いほどの雨。その力が心地よく感じる。もっともっと、打ちのめしてくれていい。この身が崩れるくらい、いっそ崩してほしい……。

 身体が重かった。髪もスーツも、靴の中まで水が入って、川に飛び込んだと言っても不思議ではないくらいびしょ濡れだった。

 降りしきる雨しか視界に入らなかったのに、ふと、泰章と同じくらいびしょ濡れになったのぼり旗が見える。なにげなくそれに近づくと、そばにドアがあった。

 雰囲気に引き寄せられて、そのドアの中へ入る。鼻につく甘い香り。――パティスリーだと理解し、足は止まることなく進んでいく。

 壁に沿って工夫されたディスプレイ。見覚えのある商品たち。形や包装は違っても、なにであるかはわかる。

 クッキー、マドレーヌ、フィナンシェ、ダックワーズ、パルミエ、マロングラッセ……。

 なんの感情も動かない。
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