いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 以前までは、チェーン店の商品や開発に心血を注いでいたのに。

 食べて幸せになってもらえるお菓子たち。見ているだけで楽しくなるもの。それを目指して、頑張っていたはずなのに……。

「いらっしゃいませ、お客様」

 ――鼓膜を、そよ風が吹き抜けた。

「こちらをどうぞお使いください」

 ……誰だ。

「こちらをどうぞお使いください。お顔や手が濡れたままでは落ちきませんよね。 髪も少しお拭きになった方がいいかと思います」

 よどみのない声。透き通った、純粋な……痛いくらい胸に沁みわたってくる、声。

「髪が濡れているとお顔に垂れてしまいますから」

 こんな澄んだ気配を感じるのは、どれくらいぶりだろう。

 無意識のうちに、ゆっくりと声の方へ身体を向けていた。

 タオルを差し出す手。邪気のない微笑みと、伝わってくる温かさ。

 ストンッと、高い場所から突き落とされたような衝撃とともに、身体に感じていた重いものが流されていく。

 ――君は誰だ、何者だ。天使か……?

 彼女が、少し驚いた顔をした気がする。

 人間に向かって〝天使か〟などと感じてしまった自分の心を読まれたのかと、泰章はほのかな照れを覚える。その瞬間、感情が心に戻ってきた。

「ありがとう」

 タオルを受け取って礼を言う。彼女がホッとしてくれた気がして嬉しくなった。

 パティスリーの販売員なのだろう。若い女の子だ。こんなびしょ濡れで店に入ってきた迷惑な人間に、彼女は臆せず接してくれる。

 彼女と言葉を交わすのが心地いい。誰かと話すことが苦痛にならないのは久しぶりだ。

「はい、当店自慢のパティシエの力作が並んでおります。色とりどり、鮮やかでかわいくて美麗、見ているだけで楽しくなりますよ」

 張り切る声と笑顔は、泰章の身体を動かした。ショーケースに並ぶのは、見るのもいやになっていたはずの洋菓子たち。それなのに、彼女が言った通り、見ているとその鮮やかさに心が奪われていく。

 ――そうだ……俺は、この仕事が好きだったんだ……。

 見ているだけで楽しくなるもの。食べて幸せになってもらえるお菓子たち。それを、目指していたのではなかったか。

 彼女は身体が冷えた泰章を気遣い、温かいレモネードをくれた。柑橘類の酸味は苦手なはずなのに、甘いと感じた。
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