いっそ、君が欲しいと言えたなら~冷徹御曹司は政略妻を深く激しく愛したい~
 わずかに宙を仰いで小さく息を吐く。廊下を歩きながら苦笑いを漏らした。

「わたしがいたら、ご飯がまずくなるしね」

 会って話をしなければ親しくなれない。それはそうなのだが、やはり憎まれているとわかっている相手とは接しづらい。

 それを言ってしまうと接しづらい相手に泰章も含まれてしまう。あまり面識のない、くらいにしておいた方がいい。

 泰章と結婚したことで、母の罪は史織が背負った形になっている。当然非難の目も史織に集中している。

 許せないという感情も、すべて……。

 それでも……、いつかは、許してくれるだろうか。

 母がしたことの裏で起こっていた出来事を知れば知るほど、心が重くなる。母は烏丸家の当主と一緒に失踪すればどういうことになるか、考えたことはなかったのだろうか。

 史織は小さなため息をつく。今さら考えても仕方がない。

「お出かけ用のお洋服の出番は……なかなかこないね」

 クローゼットで眠る外出着たちの出番は、まだまだ先のようだ。



 烏丸家での生活に息が詰まらないでいられるのも、家政婦や出入りの人たちが普通に接してくれるおかげ。そしてなんといっても、以前と変わらずgateau gateauで働けているおかげだと史織は感じている。

「ありがとうございました。お気を付けて」

 常連客をドアの前で見送り、史織は頭を上げてドアが閉まったのを確認してから方向転換をした。

 休み明けの火曜日、午前中は常連の来店が多い。店内にいる客、十人のうち三人がよく来店する常連、四人は顔に見覚えがあるのでリピーターだろう。

 カウンターに戻ろうとした時、由真が焼き菓子の補充を持って出てきた。

「お疲れ由真ちゃん、今日は朝から忙しいね」

「よく出るのは嬉しいですけど、在庫が心配ですよ。今日は手が足りないし……」

 ふたりの視線はカウンターのうしろ、厨房と仕切られたガラス窓に向けられる。厨房すべてが見えるわけではないが、そこからケーキを作るパティシエやサポートスタッフの姿が見えるのだ。

 今日は入江の姿がない。所用があって、店に出てくるのは昼過ぎになるという。いつもは焼き菓子に関わることが多い國吉がデコレーションにつきっきりだ。
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