◆ラヴェンダー・ジュエルの瞳
 この一時間程前までは、あたしの真ん前には平穏で平凡な世界が広がっていたんだ。

 いつも通りののどかに始まった夏休み──高校最後の貴重な夏休み──

 ──の筈なのにぃ……! この始まりは一体何だ!?

「ふむ……なるほど。そういうこと、ですか。ではお返しすることに致しましょう」

 と『そいつ』は変わらぬ表情で、あたしの腰に腕を回し、(おとがい)に手を掛け引き寄せた──って!?

「ちょっ、ちょっとっっ!!」
「んん?」

 『こいつ』には学習能力って物がないのかしら!?

「一体何をする気なのよっ!?」
「んー、戴いた口づけを、口移しで返そうかと」
「ああっ!?」

 もう……頭痛を催しそう……。

 今一度大声を上げて説教でも始めてやろうかと、深く息を吸い込んだところ、けれど『そいつ』はふと真剣な表情を見せた。……何だ、そんな顔も出来るんじゃない。

「さすがにそろそろ冗談は終えましょうか。いえ、まさかこんなにお美しいご令嬢が、初めての接吻でございましたとは、大変失礼を致しました」
「あんた……良くもそんな歯の浮いた台詞が言えるものね」
「ご心配なく。自分の歯は浮いておりません」
「こっちの歯が浮きそうなのよっ!」
「では再びの口づけで、その歯を見事に押さえてみせま──」

 さすがに呆れ果てて、あたしの掌が『そいつ』の口元を塞ぎ中断させた。何でこんな奴に唇を奪われた上、バカ丸出しの漫才をやっていなきゃいけないのか……そう……それは平和そのものだった一時間前に(さかのぼ)る──


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