椅子こん!
「来るな! 来るなぁああ───!!」
椅子を両手に抱えた──いや、構えた私は、ただ叫んでいた。
なにかを前にして、なにかを、拒絶していた。
───────────────
ドンドンドンドン!!!
ドンを何回聞いたっけ。
先生のスキダをうっかり拾ってしまい、告白イベントが始まった放課後。職員室を訪ねるなり指導室に呼ばれ──た私が見たのは、椅子に座って待っている先生の胸から私を見た瞬間に飛び出してくる大きなスキダだった。気付かないふりをしようと目を逸らしていたが、すぐに悟られる。
「──見て、しまったんだね?」
先生は、にやっと笑って近付いてくる。じりじりと詰めてくる距離に、私は思わずその場から駆け出す。
廊下を走る先生との鬼ごっこが始まった。
しばらくぐるぐるとあちこちを回り、まいたと思う辺りの階で、目についた近くの教室のドアを自発的に閉めて自らを隔離するも、すぐにドアをノックされた。
スキダには追尾能力がある。
「嫌────なんで、なんで私なの?」
ドアの間からは大きな結晶化した魚が顔を覗かせようとしてはドアに押し返されている。
「好きなんだ。恋って、止められるものじゃないんだ。先生のこの気持ちはどうしたら良いんだい?」
ガチャガチャ、と合鍵を操作する音がしていよいよ私は覚悟を決める。……ということは出来なくて、ただ目の前に起きている異常事態に混乱した。
「とにかく会いたいんだ────悪いことはしないから、な?」
私は混乱したまま、恐る恐る近くに積み上げられた椅子に手を伸ばす。その空き教室には、教室が縮小されたときに移動した机や椅子が積み上がっていた。
そのひとつを、ゆっくり引き抜き、ドアの向こうを見る。
やるしかない。
ガチャガチャが済みドアが開いた瞬間
──私は叫び、椅子を大きく振り上げた。
「く──来るなああああああ!!」
しかし、先生の姿を見て一瞬絶句して、手を下ろす。 ドアを開けないでいるうちに、すでに先生の頭がスキダに取り込まれており、やけに輝く魚の頭をしたスーツ姿の存在になっていた。
「せ──先生──その魚頭、どうしたんですか」
冷や汗をかきながらどうにか笑うと、先生はなんのことかわからない様子で私に説教し始める。
「とにかく恋というものはね、自然なことなんだ、人間だけでない様々な生物に……」
気が付くと、呆然とする私に構わずに恋愛とはという話まで始めていた。
恐る恐る、聞かずにドアから外に出ようとした私は、先生の鋭い魚眼を見ることとなる。
「グアアアアアアア────!!!!」
瞬間、牙を向いた魚。
驚いて思わず後ずさり、横に持ちかえた椅子を振り上げた。
「来ないで!! 足軽先生──なんでなんですか!!? 先生奥さん居るじゃないですか!! 結婚してるって言ってるじゃない!!」
「スキダアアアアア────!!! 」
理性を失った怪物は、私の声など聞こえない。逃げて廊下を走る私を見ても、みんな、ニヤニヤしているだけ。
先生に同調している……?
「なんで笑っているの!! これが、笑いごとに見えるの!?
先生を止めなくていいの?」
そう、先生は結婚している。スキダの向く対象を制限するにも向いているのがこういった契約だった、はずだ。
なのに──これは何?
結婚してもスキダの発動が抑制できない人がいるなんて、授業で習わなかった……!!
走りながら、誰にともなく叫ぶが、ニヤニヤする人が増えるだけ……異常だ。
この戦争は、止める人がいないだけじゃない。周りまで頭がバカになってしまった。
とにかく、時間を稼いで、それから、早く、私が、殺さないと────!
何も宛にならない、スキダはいつでも発動する。誰も宛にならない。スキダはいつでも発動する。
「どうして! ちょっと話しただけじゃない!」
スキダが生まれるとき────スキダが生まれる意味は、理屈じゃない。
しかもそれが怪物になることもある。
そういえば──世界には、問答無用で他人からスキダを引き出してしまう金属が存在するらしい。
スキダを抜かれた人たちがその後どうなったかは知らないが、それは魂のようなもので、亡くなる人も居るという噂だ。
椅子を抱えたまま、私は結局、先生が用事で出かけるまで、校舎中をさ迷った。
校舎裏の渡り廊下を歩きながら、先生から解放された、と気付いたときには涙が溢れてきて崩れ落ちるように泣いた。
「────恋愛なんか、無かったら、みんな楽しく暮らせたんだ……! 変な信号でみんなおかしくなってしまった……先生もおかしくなってしまった……! 結婚しているのに!
とうとう私の前で顔が怪物になってしまった!! あれじゃ学校に居られない!」
怪物を間近で見た。
おぞましかった。
……あれが、人間だったのだ。
異常な世界のなか、しかし椅子だけは変わらないで私のそばに寄り添っていた。
そして、少しだけ持っている背もたれの部分が光って────
「え?」
スキダと同じような輝きに、一瞬驚くが、すぐに消えてしまう。
(気のせいか……)
「椅子や、鉛筆や消しゴムは、スキダが効かない……? のかな……」
いつの間にか私は、次第に物を好意的に見るようになっていた。
◆◆
窓際、日差しに照らされて机の上に寝転がるその人を眺める静かな時間が好きだった。
その人は、尖っていたり、丸かったり、日によって様々な表情をしていて、見てて飽きないし、なにより、木の良い香りがした。
だから、私は、ずっと彼を見ていた。
一人の、対話の相手として。
一人の存在として。
誰にも知られないように、内緒の想い。
「床屋さん予約完了、と。 昼にパン食べたら電話するか……あらおはよう──まだ、一人で居るの?」
「アマニ……」
せっかく早起きして二人きりを楽しんでいたのに。
その日は、クラスの中心的女子の一人、アマニが腰に手を当てながら私に絡んだ。
「人間的に欠陥があるから、誰とも付き合えないのよ」
アマニは、好きな人、が沢山いた。
何てことのない作業のように、あちこちに恋人、を侍らせているらしい。キツい言い方でアマニは私を嘲笑する。
私はアマニのようにはなれない。
だからか、アマニは私を見ると気にくわないといった風に暴言を浴びせることがあった。
人間的に欠陥があるから好きな人間が居ない。
付き合うことは、簡単なこと
なんなら私が付き合ってあげましょうか。見下しながら、私も、私の好きな人、も居ないものみたいに言う。
「──ううん、大丈夫、私、充分幸せだから」
眺めている鉛筆からは、木の良い香りがする。私の知らない知性、クラスメートには無い、得たいのしれない魅力。
──物が好きだった。
尖ってたり、丸かったり、艶々していたり、ざらざらしていたり、そういう面を見ていると、なんだか心の奥が満たされるような、落ち着かないような、でも見ていたいような、
不思議な感じがした。
──もっと見ていたい。
もっと触りたい。
そう思っては、気に入った物、をあちこちに飾ったり、連れ歩けるものは連れ歩いた。
今思うと、これが「恋」なのだろう。
しかし44街では、当時人間の異性に対してしか恋という表現がされなかったので、そのときの私はこの想いをどうしていいかわからなかった。
間違いかなにか、そういうものと考えるしかなくて──だから、私は、欠陥があるのかもしれないと、自分でも考えていたのだ。
「──早く、誰かと付き合わないと、ラブレターが来やすくなるわよ」
ラブレター?
「そう、誰かに想いを告げる手紙。44街では──告白を懸けた果たし状」
私はアマニがそう言う意味をよく理解していなかった。なぜ付き合わないとラブレターが来やすくなるのだろう。
──そう、思っていた。
なにもわからず、ぽかんと話を聞く私にアマニは軽蔑の視線を寄越した。
「お父さん、お母さんから聞かなかったぁ? 二人がどんな決闘をしたのか? 恋は、どんな戦いなのか」
「知らないよ。その話をすると、いつもヒステリックに叫んで、会話にならない」
窓の外の空を見る。良い天気だというのに、空は不気味に赤黒く染まっている。最近は精神領域汚染問題が深刻化してきているらしく、こういった光景も見られた。
「恋は──戦争、かぁ……」
怖い。戦争は嫌いだ。
「──岡崎アマニ。私、モテるのよ。覚えておきなさい。本当は今日の夕方だって、恋人希望の電話が来たんだけどそのときは生憎気分じゃなかったから募集してないってお断りしたの。ハキハキしてたし、結構良さげだったのに。これはチャンスよ!」
「でも──私好きな人居るから」
恋って、なんのために必要なんだろう。
こんなに、好きな人が居るのに。改めて人間を好きにならないといけないのは、なんだか悪いことをしているみたいで、もやもやして、胸が痛かった。
ほどなくして、クラスで苛めという文化が浸透し始める。
「告ー白!」「告ー白!」
男女を二人きりにさせて、周りからクスクス笑う。私もそれを受けたことがある。
全然、何も思っていない子だった。相手もそうだったと思う。
正確には最初に彼、が虐めの対象だったのだが、空き教室に呼び出されて、二人鉢合わせするように仕組まれていた。
そして何も聞いていないまま二人にさせられると、まわりが一斉に鍵をかけた。
クラスは話題に飢えていて、そんな青春を彩るにふさわしいのがこの恋愛ごっこだった。彼らは、虐めではなくて、善意と呼んでいた。
「ちょっと、出しなさいよ!」
私はドアを叩いた。
彼も、反対側のドアを叩いた。
この虐めの陰湿なところというのは、相手が自分をどう感じているかも同時に悟るところだ。
相手もまた「ふざけんな!なんでこんなやつと閉じ込められるんだ!」と苛立っていた。
胸がじわりと痛む感覚と、同時にそれは自分のことでもあって、他人という距離が、他人によって強引に破壊されることの圧倒的さは半端ではなかった。
しばらく、ガンガンとドアを叩いていたが、ギャラリーの告白コールが誰も居なくなると窓からベランダを伝ってそとに出た。
学校はずっと戦場だ。
恋愛という価値観すら現代には既に戦いの道具以外の役割はないし、甘美な響きなどおはなしのなかに過ぎないのである。
何日も、何日も、何日も。
冗談で作られたラブレターによる戦争、別の子と閉じ込められる戦争。誰かしらを二人きりにしては、周りの生徒が手を叩き、嬉しそうにニヤニヤ笑っている。
一番驚いたのは、先生だ。
「青春、だねぇ~」
と嬉しそうに、窓の外から、こちらを眺めていた。
そんななかに、いつの間にかうまれたのが『スキダ』を受け取ったら決闘していいという物だった。
スキダは、思春期の結晶とも言われていて特定の相手に対して生まれる魚型のクリスタル。
そして成長すると対象を常に追尾するようになる。
追尾がときどき攻撃に変わり、相手を殺すことも珍しくはない。
真正面から叩ききれる唯一の方法はスキダを送りつけた相手と向かい合って命懸けで戦い、突き合うことだった。
そのときはまだ小学生で、生まれるのを見る機会はなかったスキダは、やがて進学につれて大戦争の定番へと変わっていく…………
「許してください! ごめんなさい!
あああああああああああああーー!あああああああああああああー!許して!ください! スキダは要らない!飲み込まれる! 飲み込まれる! わああああああああああああああああああああああああああああああああああああ閉まってる、ドア閉まってる! ドア閉まってる! スキダが来る! うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ───────────────────────────────────────────────────────────────」
お父さんとお母さんが居なくなったのは、それからすぐだった。
前々から喧嘩が絶えなかったけれど、こんなときは仲良く二人揃って消えてしまうとは思わなかった。
夕飯はなんだろうと思いながら台所に行くも夕飯がなくて、そのあと何時まで待っても二人は戻らなくて、夜中に呆然と台所に立ち尽くす私の足元に、なにかが触れる。
──いや、はじめから触れていた。本当は家のあちこちで血のようなにおいがしていたのだがら。だけど、まさか。だって、そんな。
「なん……で……?」
血だまりの中を歩きながら、
思い出す。思い出した。此処で起きていた、二人の、恋愛(戦い)を。
やっぱり、ずっと小さいころから、私は物が好き。
それは、人間に向ける以上に、私にとって意味がある気持ちだった。
だから……『あのとき』に正しく互いの言葉の意味を理解しあえて居なかったことを今でも思い出してしまう。
スライムが、私は一人だと思い込んでいたと知ったときはとても驚いたと同時に、悲しかった。
友人にさえも、私の気持ちは誤解されていたままだったのだ。そして、その誤解のせいで、スライムが私を好きになってしまった。
人気を避けた家に住んでいること、物が好きなの、と先に言ったことで、通じていると、認知できているものだ思い込んでいた。
本来、起こらなくてすんだかもしれないすれ違い。
――私、このコップが好きなの
――……素敵なコップだね
物は、通常言葉が人間に聞こえない。
人間なんて、会話させてももらえなかった。あんなの、人のなかで生きるのが許された人間同士でやればいいんだと、思ってきた。
私だけの言動から妄想として、処分されるのが、想いが否定されるのが怖かった。それを、力づくで行うようになってしまうスライムの執着も、未だにどう受け止めて良いのかわからないままだ。あのときのスライムが、私の想いを理解してくれるとは思えなかった。
(……和解なんて、無理だっただろうな。お互いの気持ちが違い過ぎるよ……)
――椅子に、気持ちなんか、あるか?
――物に心はなく、ただの、性慾を処理することを恋愛と呼んでいると思っていた
――お前の信じる、椅子を信じろ!
「……アサヒ――アサヒ――私……」
思わず自分の肩を抱きしめる。
何が正しいのか、何も正しくないのか、考えるだけでどうにかなりそうだ。
だけど、私は、迷っても、信じたいものを信じる。
北国。どんなところなんだろう。恋愛至上主義者の根城。あの宝石の取引をしているところ。
いろんなことを考えてしまって、うまく眠れない。
あれからは、せつにも合わない。代理のわたしも、出てこない。
こんな日が来るとは思っていなかった。
クロは私の痕跡すべてを、身分証明書レベルで、社会すべてから無くしたいはずだ。
だから、私は届けも出せない、外に出られない。身分証明も出来ないと今まで、そう思って、居たけれど……
(でも、市長は、認めるって言った……)
市長は、クロとはそこまで深くは繋がって居ないってことなのか。
確かに、44街の戸籍そのものは国に行くものだから……役場が拒否したせいで、余計に混乱していたけれど、そうだ。上には上がある。
同じ44街でも、何もかもを統括する人は居ない。
────人間が憎いなら。
────物でいいじゃない。
どうして椅子の前で、人間の話をする。嫌いな人間の話をしたって、そいつらは君を悪魔としか思わないじゃないの。
「…………」
胸の奥がきゅっと窄まるような感覚がした。椅子さんは、私を、椅子と話せる人間を待っていたって言っていた……結局あれは、どういう意味だったんだろう。
目を覚ます。カグヤの部屋だった。床で雑魚寝をしていたらしい。
久々に背中と内臓が痛くなるくらい寝たのに、やっぱり眠りが浅いのか夢を見てもすぐ目覚める。
──私たちはそのときもさまざまなルートに観察した対象の概念をばらまき続けてた。
若い……女の子だった。そのときの子は死んじゃって、怪物だけが何年も、街に現れた。
数年前に、キムの手が隣国で発見されたニュースが話題になった頃から、今まで鳴りを潜めていた恋愛総合化学会が急にまた話題になり、工作員を募集し始めてた。
概念体は、つまり昔の人たちが放置した部分も合わせてより強化され防ぎ切れなくなっている。なのに今なお工作を秘密裏に続ける為にこうして政策として市民に発令したとしたら、ぼんやりした頭で、すぐ枕元ににある端末を探す。
電源を入れるとキムの手が発見された記事を検索した。
「コリゴリ……」
概念体は、つまり昔の人たちが放置した部分も合わせてより強化され防ぎ切れなくなっている。なのに今なお工作を秘密裏に続ける為にこうして政策として市民に発令したとしたら、ぼんやりした頭で、すぐ枕元ににある端末を探す。電源を入れるとキムの手が発見された記事を検索した。この年代に、若い女の人が亡くなっている……アサヒは知っているかもしれない。
(彼女は、44街で肉体を奪われたまま、今もその魂を、概念として使われているの?)
カグヤが物音に気づいてすぐ近くから起き上がる。
「──なに、どうしたの」
「あ……おはよう。ちょっと目が覚めただけ」
壁にある時計は朝の3時をさしている。
「そう……私寝るよ」
カグヤは眠そうに改めて布団に潜ってしまう。ベッドで寝ていたらしい。
「うん……」
私はすぐ後ろを振り向いた。
アサヒが私と同じく床に布団を敷いて寝ている。よく眠っていた。