ボレロ ~智之の母、悦子の章
「私ね、大学に入って すぐに アルバイトを始めたの。親が 必死で働いて 学費を工面してくれるから。せめて 交通費やお小遣いくらい 自分で稼ごうって思って。日吉駅近くの パン屋さん。平日の夕方少しと 土曜の午後。当時のパン屋さんって ガラスケースに パンが入っていて お店の人が 内側から取るスタイルだったんだけど。そのパン屋さんは 今みたいに 入口でトレイとトングを持って 自分でパンを選んで 取るお店でね。最先端の おしゃれなパン屋さんだったのよ。」
お母様は 少し得意気な笑顔で 懐かしそうに言った。
「よく 残ったパンを貰って帰ったわ。それを 翌日のお昼に食べて 昼食代を節約していたの。ある時 空き教室で 友達と お昼を食べていたら たまたま お父さんが 友達と その教室に入って来てね。私のパンを見て『うまそー』って言うの。仕方ないから『食べますか?』って 一つあげたの。『ありがとう』って お父さん、パン齧りながら 出て行っちゃったけど。それだけのことで 友達は キャーキャー言うし。」
「次に お父さんと一緒の授業の時 教室に行ったら 入口に お父さんがいてね。『パンのお礼』って 缶コーヒーをくれたの。ねぇ、私達 中学生みたいでしょう。でも そんな感じが 案外 心地良くて。驚いちゃうくらい 純情だったのよ。」
「そのうち 夏休みになって。私は アルバイトを頑張っていたの。学校 休みなのに 毎日 日吉まで行って。他に予定もないし。それも 楽しかったんだけどね。私、パン屋さんの奥さんに 可愛がってもらっていて。暇な時 サンドウィッチの作り方とか 教えていただいたわ。」
「そのパン屋さん 今でもあるのかしら?」
何故か お姉様まで 懐かしそうな顔をする。
「紀之の 高校の入学式に 私 そっと探してみたの、懐かしくて。でも 駅前 ずごく変わっちゃって。そのパン屋さん もう無かったわ。」
お母様は 寂しそうな表情になる。
お母様を 可愛がってくれた 御主人夫婦は
きっともう お店には 立っていないだろう…
そのパン屋さんを お母様が探したことが
私は とても 嬉しかった。
もし そこに 当時のご主人がいたら…
お母様は きっと 幸せな報告を したかったのだろう。
そう思える お母様の人生を 私は 尊敬した。