指先から溢れるほどの愛を
そう言えば、坂崎さんのお店にもう五年も通っているのに、彼が私以外の人の髪や顔を弄る所を私は初めて見た。

月一のヘッドスパの時は閉店後だからもちろん二人だけだし、三ヶ月に一回のカラーとカットの時も坂崎さんは私と他のお客さんを並行してやるということはなかったから。

だからその状況を今更ながら目の当たりにして、湧き上がって来た自分の感情に驚いた。


"触れないで"


何を勝手なことを、と思う。だって、あれは坂崎さんが誇りを持って取り組んでいる仕事なのに。

彼は前に言っていた。美容師の仕事はただ髪を切るだけじゃない。ヘアメイクもそう、お客様自身がまだ気付いていない魅力を最大限引き出してあげる仕事なんだと。

そうして最後に見せてくれる嬉しそうな笑顔だけで軽く飯三杯はいけると、笑っていた。

そんな素敵な信念を持つ坂崎さんの魔法の手に魅了されている私が、こんな勝手なことを思っていいはずかない。

だって私はそんな坂崎さんが好きなんだから。

煩悩退散、煩悩退散、煩悩退散‼︎

スタジオに戻る廊下を歩きながら、私は心の中でひたすらそれだけを呪文のように唱えていた。
< 29 / 68 >

この作品をシェア

pagetop