溶けて、溺れて
「じゃ、また明日」
「ちょっと待って。え、本気?」
「本気ですがなにか」
女の子が頑張ってチョコを作り、勇気を振り絞って男の子に告白をする日。
既に結ばれている者同士が聖なる夜の次くらいに盛り上がる日である。
一人で先に帰ろうとした私と、驚いた表情で私を引き留める王子様。
彼は予想通りに大量のチョコをもらっていて。
私の腕を掴むために片方の紙袋を離したらしく、地面にピンクで包まれたチョコたちが散らばった。
女の子たちの真剣な想いをその辺に落としてしまうなんて……ある意味さすがだ。
「俺、かれんからチョコもらってないよ?」
「あげてないから」
「くれないの?」
「あげない」
「えー……」
淡々と返す私に困惑気味の晴。
形のいい眉が下がっているのは、珍しく落ち込んでいるからかもしれない。
顔には出ないものの私も実はかなり落ち込んでいて……彼氏の寂しそうな顔につられ、もっと気持ちが底の方へ沈んでいった。
……私だって、あげられるものならあげたかった。でも、ないもんはないのだ。
正直、手作りチョコを舐めていた。
だって、板チョコを溶かして、混ぜて、また固めるだけでしょ?
なにも難しくない。小学生でもできるんだから私にできないわけがない。
そう思ってた。……だけど。
『なんで固まってないの……?』
ミルクチョコレートの板チョコを溶かし、生クリームと砂糖を入れて混ぜ混ぜ。
生チョコトリュフとやらを作ろうとラップで包んで丸めて、あとは冷蔵庫で冷やすだけ。
初めての手作りチョコに心躍らせながら眠りにつき、バレンタイン当日の朝。
すなわち、今日。
十分すぎるほど冷やしておいたチョコは、ぺっとりとクリーム状のままラップから剝がれてくれなかった。
つまり、失敗した。
原因を調べてみたところ、ミルクチョコレート×生クリームはみるくみるくし過ぎていて固まらないらしく。
レシピにある板チョコの種類をもう一度確かめてみると、しっかりとビターチョコレートと記載されていた。
……初手の初手から詰んでいた。なにをしてるんだ、私。
作り直そうにも材料がなくて。
ふてくされた私は中途半端に固まったそれらをとろとろに溶かし、食パンにチョコクリームとして塗りたくって全部召し上がって差し上げた。
甘すぎたけども味は普通に美味しかった。当たり前か。
今朝の苦い出来事を思い出していると、今度はもう片方の紙袋を机の上に置いた晴は私の髪をさらりとすくい上げた。
かち合った視線の元にある瞳は怪しく光っていて……逃げ出した方がいいのに、心臓のドキドキが妙に心地いい。
すん、と匂いをかがれても感じるのは不快感ではなく喜びにも似たときめきで。
「甘い香りがするのは気のせいなのかな」
意地悪そうに浮かべる笑みに鼓動が一気に加速する。
整った顔を直視できなくて、明後日の方向へ視線をやった。
「作ってくれたんじゃないの?」
視線を逸らしたところで止まらない追及。
晴は付き合う前もそうだったけど、かなりしつこい。
私が応えるまでずっとずーっと追ってくる。
まぁ、そんなところも好きなんだけど。
「……失敗した」
「へぇ、かれんにもできないことがあるんだ」
「たまたまだからっ!」
面白そうに呟く晴の声が耳に届き、ついムッとして声を荒げてしまう。
その希少な私の姿を晴が嬉しそうに見つめてくるのが恥ずかしい。
冬なのに暑いくらいの熱を送ってくる。
視線がうるさい。好きって言いすぎ。
耐えられなくて私を捕らえる視線からまた逃げ出そうとしたそのとき。
「でも残念だな。俺、超楽しみにしてたのに」
演技じゃなさそうな声が2人きりの教室に切なく響いた。
端正な顔にも陰を落としていて、ずきりと胸が痛む。
「そ、れは……ごめん」
「大丈夫。チョコをくれないなら別のものをもらうから」
やっぱりさっきのは演技だったかもしれないと疑ってしまうほどに切り替わった表情。
満面の笑みはそれはもう美しいのだけど、どこか胡散臭くて嫌な予感がした。
「……なに」
「―――さっき、チョコ食べてたよね」
途端に、私の意思なんて知らないと言わんばかりに奪われる唇。
いや、拒まないことを知っていて強引なんだ。
そして私も、その唇が優しく、甘く。私の全部を溶かしていくのを知っているから。
熱く、柔らかなそれを受け入れ、時折自分も応える。
晴のことが好き。
私の人生初めての手作りチョコをあげたかった。あげられなくてごめんね。
許してくれてありがとう。私への慰めでもあるこの愛おしい触れ合いをありがとう。
私を想ってくれてありがとう。
晴、好き。ほんとのほんとに、大好き。
私の中で湧いて留まることを知らない様々な感情が、少しでも晴に伝わればと。
甘い想いを、自ら絡める。
息がしづらくてもいい。
想いが届けば。想いを感じられたら。
濃密な空気に、溺れていく。
やがて思考まで溶かされ、ただ本能のままに晴を感じていると空気が唐突に緩んで。
「ふふっ、ご馳走様。甘かったね」
艶めかしく笑う晴が、膝から崩れそうになった私を力強く支えた。
私はこんなにも晴に夢中で必死なのに。
晴は余裕そうに私を柔らかく見つめているから悔しい。
「……馬鹿」
「健気なかれんが可愛すぎたんだよ」
「意味わかんない」
「彼女のことが大好きってこと」
「ふーん。……いろんな子からチョコもらったくせに」
「かれん、もしかして嫉妬してるの?可愛いね」
いつもと変わらない私の声のトーン。
だけど、察するのが得意な晴は私の図星を容赦なくついてくる。
それから、私の不安を取り除くようにふんわり笑った。
私の心を覆っていた真っ黒が、すぐさまどこかへ散っていくのが不思議。
「安心してよ。これ全部、甘党のお隣さんにあげるだけだから」
「……それはそれで性格が悪い」
「性格悪い俺は嫌い?」
「大好き」
即答してしまうのが癪だけど、晴の悪いところも含めて丸ごと好きなのは紛れもない事実。
……毒されてるな、私。
「俺も大好き」
降ってくる中毒にも似た激しい愛情。
私以上の大きな愛を返してくれる晴は、また私と触れ合うことを望む。
私も同じ望みを抱いているから。
―――私はそっと目を閉じ、いつまでも晴に溶かされて溺れていくんだ。