丸いサイコロ
何でだろう、と思っていると、ドアが僅かに開き、隙間から、何かに頬を引っ張られた。
「いたたた」
棒読み。きゃー! とか、うわー! みたいに言えないが、これでも、ふざけているわけじゃないのだ。
驚いている。
中から妙にテンションの高い声がするかと思えば、ドアを完全に開け、中から出てきたのは、兄だった。
「やっと来たのかー、待ちくたびれたよ、なぁちゃん!」
くたびれるほど待ってたのか。服装は、ラフな黒いTシャツ。特筆することもない感じ。
元気いっぱい、と見える。
「な、なんで。だって、変装は……」
──というか、ぼくはどこの部屋で寝ればいいんだ。相部屋はやめてくれ。
他の部屋の鍵を取りに行けってことだな。どいてくれ。
「変装? 何いってんの? おれは、お前を連れ戻しに来たんだよ。それで、ここに泊ってた。昼間も、映画館で、会ったろ?」
「映画館?」
うーん。会っただろうか。何度考えてみても、それらしき人物がいた記憶がない。だいたい、暗くて、辺りがよくわからなかったのだ。
「えー、ひーどーい。カノミヤさんは、あの中でちゃんと見つけてくれたのにな」
「まつりが……見つけてた?」
「んで、お前にも見つかっちゃう、と思って、すぐ、あわてて椅子の背もたれに隠れたけど、もうバレてると思ってたよー。あー、なんだ、せっかくのサプライズの機会を逃したかー」
どうやら、この人は、あいつを知っているようなことを言った。
──では、まつりも、こいつを知ってる?
「で、いいから離せ。ぼくは行く!」
と、兄を押しやっていたときだった。
わざとらしいほどの足音が響いて、左後ろのドアから、まつりが出てきた。服を、新しくて似たようなシャツに着替えていて、そしてただただ、無表情だった。
「──やっぱり、来てると、思ってたよ」
まつりはそう言って、兄を見据えた。
「やあ。きみは、ちゃんと見えていたんだろ? ひどいなあ、どうして、ずっと、ガン無視だったの?」
「……さあね? 腹が立ってたからじゃないかな。ただでさえ眠かったのに、車内で、わ・ざ・と、電話をかけてくるような、嫌なやつだからな。おかげで眠れやしなかったし」
「言いがかりだね。っていうか俺は関係ないだろ? あの娘がドライブモードにでもしておけば良かったじゃないか。そもそも俺は、お前らがいつ、どこで何をしてるかわかるわけないだろうし」
「よーくいうよー、だ。車内にカメラが、少なくとも2つ、あったぞ。あんな分かりやすいの、気が付かないと思ってたのか?」
ぼくは、ぽかんと、二人を見ていた。何にも気が付いていなかった。勘違いも、いくつかあったようだ。 (だが、そうなるとあの手紙は?)
「ナナトは、たまに、どこからの、誰からの声なのかが、聞き分けられないみたいだから。ちょっと面白い勘違いになってたな。頭の中で、些細な違和感も完全修正しちゃうみたいだ」
急にふられて、びっくりした。あわてて返す。
「ええっと……わかってたのに、言わなかったのかよ!」
《兄》が車内で運転しているせいで、兄からかかってくるなんて、思いもよらなかったし、ケイガちゃんの電話からの声だ、というのも気が付かなかった。(というか、なぜ彼女の電話から?)
内容は聞こえているはずなのに、誰の声なのかは、ときどきわからない。声への違和感を、脳内修正が、簡単に上回ってしまうのだ。
ぼくは《どんなことを言っていたか》を記憶し始めると、同時に、《誰が、それを言ったか》を、ときどき置き去りにしてしまうらしい。
(しかし、言葉遣いや、喋ってる人の違いが、ぼくの強烈な自己暗示や脳内修正だとしても、にや、とケイガちゃんが笑ったのを見たのは、間違いなかったが)