丸いサイコロ

「混乱してる方が、可愛らしいかなって思って」


 まつりは、悪びれたりせずに言った。適当なやつだ。


「あー、そういうやつだったよ、お前」


 たとえば、ぼくが部屋で課題をしていても、暇潰しにパズルを解いていても、横から、全く違うことをそれらしく吹き込んで楽しむようなやつだ。

「そういうやつ……」

まつりはそれだけを、噛みしめるように、嬉しそうに、視線を僅かに反らした。そして、ゆっくり通路の壁にもたれたが、ちょっと指先が浮いている。

「──で、こいつと知り合いなのか?」

何かに驚いたような顔で固まっている兄を示しながらまつりに聞いてみた。
まつりは答えず、兄に質問した。そういえばもう、敬語ではないみたいだ。

「──それより、ナナトを連れ戻しに来たって、聞こえたけど、どういうことかな?」
「きみが言った、目撃者を───以下略。っての、やっぱり気が変わっちゃったんだ。なぁちゃんだけは、保存しとこっかなって。──でも、何か、関係あるの? カノミヤさんに」

「関係が、ある……」

「どんな関係? どういう関係? 俺らは兄弟だけど、きみは、部外者だ。裏切者側だろう?」

「兄弟。部外者……裏切者……関係……関係……?」

まつりは視線を左右に揺らした。不安そうに、焦りを隠そうとしているように、誰にも目を合わせることなく、ぱくぱくと、虚ろに口だけを動かしている。

思わず、ぼくはその腕を掴んだ。なんで、そんなことをしたんだろう。わからない。何も映さない目に、とりあえずぼくを映してほしかったのかもしれない。

まつりは、それを強く振り払った。震えた肩は、怯えを示していた。


「あ……」

「で、だ。なぁちゃん、俺と帰ろうぜ」


 兄は何事もなかったかのように、まつりを放って、ぼくに詰め寄る。腹の傷が疼き出したと主張するように、そのまま、まつりはしゃがみこんだ。

「触るな、触るな、触るな触るな、触るな。視界に……視界に入るな!」

そして、拒絶の言葉をひたすらに吐いていた。
それは、ひどく悲痛な叫びで、とても懐かしかった。


 そしてそのまま、まつりは部屋に戻ってしまった。何を思っていたのかは想像がつかない。

が、とにかく一人になりたかったのは確かだろう。触るな、と寄るな、を言い残し、閉じこもってしまった。せめて病院に診てもらいに行ったほうが良いと言ってみたが、うるさい、の一喝で、終わった。


 気を取り直したように、兄が会話を再開する。


「……まあさ、俺が本当に連れ戻しに来たのは、お前じゃないんだよ」


 だったらなんでそんなことを言ったんだよ、とつっこみたかったが、まつりを下がらせたかったのだろうか。案外何も考えていないのかもしれない。


「ケイガちゃん?」

なんとなくで、浮かんだ相手の名前を聞くと、兄は怪訝な顔でこちらを見た。

「――なんだそれ。俺が言ってるのは、ちっちゃい女の子で」

「だから、ケイガちゃんだろ? あの、やけに威勢のいい」

「……ケイガ? いやいや、それは、あそこの双子メイドの、母親の名前だろ。なになに、なぁちゃんも、知ってんの? 可愛いよなあ。一家揃っての美人メイドさん。母さんたちには内緒で俺、こっそり二階の窓からよく眺めてたんだけど」

 ああ、そうか、うちは、二階建てだったのか。
よく些細なことで追い出されて、玄関と、庭が定位置だったぼくには、二階が作り物じゃなかったことに、現実感がなかった。さすがに、空気を体験することがあまりなかった場所のことは、印象が薄い。 いつも二階を隠す、レースのカーテンは覚えているが。


「じゃあ、あの子は」

「ヒビキちゃん。お前が《いなくなったとき》父さんが代わりに《佳ノ宮家から、見つかるまで預かった》子だ。結構、昔、俺になついてくれてたよ」


 いろいろと含めて、そういうことが平気で行われる日常だった。

「すっごい小さくてさ、ほとんど赤ちゃんで、まだ、やっと歩けるくらいだったかなあ」

 ぼくは、ふと、頭に浮かんだことを口にしてみた。

「なあ、兄」

「なんだ弟」

兄は興味津々というふうにぼくを見ていた。まっすぐな、冷えた瞳で。

 過去のことなんて、何もなかったみたいに。それは、ぼくにとって、ひどく、気持ちがわるいことだった。

「ぼくとまつりが二人でここに来た日の、前日とかにこの館に、入ったか?」


「あー、そんなことがあったな。でも、入ったかは知らん。そんな昔のこといちいち覚えてたらおかしいだろ?」


「……うん。そうだよな」
それは、そうだろう。

「だいたい、なんでそんなことを聞くんだよ? なんか関係あんの?」


 ぼくは、ポケットに手を入れ、それを取り出した。ウサギさんのついたヘアゴムの片割れ。

「──ここに、これが落ちててさ、これ、本当にずいぶん前、実家で見たような気がするんだ」


そこに落ちていたから、そこにあるものだと思い込みそうだったが、ぼくが激しく恐怖に見舞われた原因は、単にそれが弾力性のあるゴムだったからではなかった。現物そのものが、顔に飛んできたことや、それで首をしめられそうになったことが、過去、実際に、確かにあった。


 フラッシュバック。激しい動揺で、ただ恐怖だけが脳内を埋めつくした。ぼくは、そしてそれをそのまま、見ていないことにしたのだと……思う。それでは無いと、言い聞かせていたが。


「あー、あー、あー、すごい懐かしい!」

 兄は、予想通りに、懐かしむ顔をした。誰のものだとか、そんなのはぼくも知らない。彼の趣味ではないだろう。ただ、見つけたマトに当てて遊ぶというのは、幼い彼の楽しみの内だったように思うから、持ち歩いていて、ここに落としたのでは、と思った。


「これ持って、中に入ったんだろ?」

「だから、知らないって。昔のことなんて」
 ここで、さっきから聞いていたらしいケイガちゃん……いや、ヒビキちゃんが、部屋から出てきた。水色の子どもらしいパジャマ姿で、枕を握りしめていた。どうやら眠るところだったらしい。今は、何時なんだろう。



 今更ながら、廊下で話すと声が響く、ということに意識がいっていなかったらしい。


「……悪かったな、だますような真似をして」


淡々と謝りながら、ドアから出てきた彼女のその目は、ただならぬ殺意をはらんでいた。さっきまでの話を聞いていたというのは、つまりそういうことだろう。
 ぼくは、一言が出てこなかった。陽気な挨拶をするのも、突然土下座に走るのも、この場では間違いなのだろうから、その反応は、マシな選択だったのかもしれない。

「貴様、だったんだな」
ぼくは、何も答えない。この場合、根本的には誰が悪い? 悪くない?
そもそも、良いと悪いの違いも、主観の違いでしかないだろうと思う。違う。今そんなのどうでもいいじゃないか。

「……貴様が、お姉ちゃんを、裏切った」

「裏切った……」

「逃げ出したんだろ、あの家から。勝手に。せっかくお姉ちゃんが助けてやったのに、匿った部屋から勝手に逃げたから──お姉ちゃんは、ずっとずっと探していた。

私にも、探してくれって言った。大罪を犯す覚悟で匿ったやつが、どこにいるかもわからなくなった状況で、追い詰められた」


ぼくが、逃げた。
ぼくが逃げたから、彼女は追い詰められた。
追い詰められて、どうなっているのか聞く勇気はなかった。彼女の状態の良し悪しは、今関係ない。追い詰められた事実は、変わらない。

「貴様は、覚えいてなかったんだろ? 些細なことだものな。敵に情けをかけられて、むしろ、安いプライドが傷付いた、というところか? 簡単に、見捨ててしまえたことだろう」


「見捨てて? ぼくが──」

カチ、カチ、カチ、カチ。昔はなかったはずの、誰かの趣味のアンティーク風壁掛け時計が遠くで音を立てていたのが、そのときになって、やけに、耳についた。


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