丸いサイコロ
<font size="4">17.サイコロの少年</font>
ぼくは、とりあえず、手紙を上着に突っ込んで、中に戻ることにした。まだ少し、倦怠感が残る体を無理矢理動かして、ドアを開ける。
――今は、何時なのだろうか。何時間経っただろう。体がわりと真面目に冷えている。とりあえず、トイレに向かった。入り口入ってすぐ右だ。
分岐点みたいなところには、彫刻のある縁の、でかい鏡がある。固定してあって、倒れそうだが倒れたりしないのだ。さすがに、ぐらぐら掴んでみたくなる好奇心に負けるほどに、幼くはない。
――ふと、全身を映してみた。1・5メートル先からだと鏡ギリギリの168センチが映る。ひょろひょろしてる。寝癖でぼさっとした髪に、眠そうな目。
わずかに膨らんだ茶色の上着の中身は、ヘアゴムと、手紙と……なんだっけ? 財布と、ガム、かな。あんまり確認しなくてもいいか。冒険に出かけるわけじゃない。
顔には傷が7つ以上。
まっすぐに伸びた、細かくて、既にもう、薄くなっているものが5つと、一番大きい傷、それにバツ印みたいにかかった短い傷で、7つが、左側に集中していた。
純粋に、軽い切り傷やひっかき傷であり、ひきつったり、肌色が変わったりするほどではなかったのが幸いだろうか。
身体にあった打撲痕は、ほとんど消えているが、引っ掻き傷か切り傷の治りは、深いものもあり、遅いらしい。一番大きいのは、額付近から、鼻をかすって、うっすら頬まで続いている。
これが出来た際、痛みを感じなかったようだから、いつ出来たのかは、定かじゃないが。時間がずいぶん経って、ある日鏡を見るまで、こんなことになってるとは思わなかった。鏡は、あまり見ない。
「んー、意外に、目立つんだなあ」
見る人には、さぞ痛々しく映るのだろう。残念ながら、当時、目立つところに傷があったって、誰もぼくの事情を気にかけたりしなかった。それより忙しいことは溢れているし、そんなに大事にされたことなどない。
ぼく自身が気にしていないのもあるかもしれないが、ぼくが、もともと変わり者と言われていたこともあるし、近所から不審がられたり、何か言われたりもしない。
気づいたところで、育ち盛りだから、駆け回って転んだくらいにしか、思われなかったのだ。兄も兄で、外面が極めて良かった。
少しして、手を洗って戻ってくると、景色が見違えたような気がした。だが、これはきっと、眠気が少しなくなっただけなのだろう。
階段をあがろうとしてなんとなくやめた。まっすぐ、食堂へ向かう。楽譜みたいなのが書かれた薄暗い廊下を歩く。
なぜ、そうしたのだろう。どうせ、何もないはずなのに、漠然と、そうしないといけないような気がしている。みんなは、恐らく、上にいるのだろうし、ぼくが食堂を目指す理由なんて、見つからないのに。
ためらいなく扉を開ける。やっぱり、誰もいない。灯は消え、真っ暗だ。
「んー、と……」
することが、ない。やっぱり、みんなの元へ戻ろう、と思った。でも、落ち着く。わずかに残る倦怠感もあり、ずっとここでぼんやりしていたいような感覚にとらわれる。真っ暗で、誰もいない。
(──ああ、懐かしいなあ)
あの頃みたいで、少し、嬉しくなってきた。
「……あの子、大丈夫かな」
少女を思い浮かべる。別れる直前、小さく笑っていた。彼女の血や、傷口を見た。でも、やっぱり、何を思えばいいのかわからない。思わなくてもいいとまでは言わないが。
ただ『懐かしい』という感情だけが沸いていた。怪我をしたまつりを見たときより、更に強く。小さな子ども、というのが引っ掛かるのだろうか?
少なからず、ぼくは興奮している。もちろん性的なものではないが。
ぼくの記憶の中の《あるはずの何か》を、それがぐしゃぐしゃに掻き回す。頭の中に、何かが溢れる。生地にダマが出来た感じ、とか、そんなことを思った。
誰にも言えやしない。こんなの、おかしい。
もしかしたら少し、パニックになっているのかもしれない。こんな感覚は、あるはずがないのだ。
気持ちが鎮まるまで、もう少しだけ、ここにいよう。
暗闇の中、手探りで、テーブルに、手のひらをつく。
そういえば、ここで、食事をしたとき、いつもと、何かが、違ったような。不自然なはずな何かを、自然に行ってしまったような気がするのだが、ひっかかりはするものの、よくわからない。
まあ、気のせいだろう。
もともと、自分のことは、よくわからない。
フォークが床に転がった。うわ、とびっくりして、拾おうと思うが、場所がわからない。音からこの辺、というのがよく掴めないのだ。
目がなれてからにしよう、と落ち着きなおして、ぼくらが結局、なにしにここに来てるのかを考えることにした。
最初に考えるべきだった気もするが。